写真下は歴史画の大家、安田靭彦(1884~1978)が描いた「出陣の舞」です。皆さんの想像通り、織田信長が今川義元と戦う桶狭間へ出陣する直前に舞ったであろう、舞ったかもしれない幸若舞「敦盛」の一場面を表したものです。※1560年の桶狭間の戦いでは、信長は褌にぼろの単衣を藁縄で締めこんでいたというのが通説ですから、この衣装は有り得ないのですが・・・・・・
そこでこの安田靭彦「出陣の舞」での信長は、左右二色の小袖を纏っています。桶狭間の戦いはちょうど梅雨の田植え時期ですから、燕を誂えたのでしょう。稲妻のごとき超特急の燕を連想したかもしれません。いまでこそ左右絵柄の違うシャツなんぞが流行ることもありますが、戦国の世の信長がそれを着ていたのでしょうから、信長は真の伊達者、否々、うつけ者だったのです。
ここまで書いたら、ちょっと首を傾げないですか。狩野永徳が最初に描いた小袖は、左右で違う二色の、しかも派手な絵柄だったのに対して、三回忌を翌月に控えた1584年5月制作の書き直し後の信長像は一色で地味な色に描き直されていたのです。
その書き直しがあった事実が判明したのが2008年9月から2009年10月の解体修理のときですから、その時まで信長の生前の洒落っ気を誰が知っていたのでしょうか?
それなのに安田靭彦の「出陣の舞」(1970年作・再興第55回院展)は二色の左右異なる配色で描かれています。安田靭彦画伯は1978年に亡くなっているので、解体の30年以上前のことです。不思議ですね・・・・・・大徳寺所蔵の信長像は描き直され小袖が二色から一色にされたということが、画家仲間に連綿と語り継がれていた可能性が無きにしも非ずです。
ところがどっこい、日本の着物文化の歴史は古く、深奥なんですね。戦国時代には「片身替わり」という小袖が能役者などを中心に流行っていたのです。能好きの信長が、派手な片身替わりを着ていた可能性は大なのです。狩野永徳の絵のように、多分表着(うわぎ)として纏っていたと考えるのがすんなりなのでしょう。
この小袖の流行は戦国時代なのですが、庶民の間ではそれ以前から普段着でありました。ゆったりとして着心地がよかったのです。その機能性から公家や武家の表着に昇格したのです。
信長の顔ですが、安田靭彦が信長没後1~2年で制作された木彫や日本画を参考にしたのは言うに及ばないことでしょう。
私奴の所有する信長像(写真上)は、山種美術家の「出陣の舞」の下絵の下画なのでしょうか・・・・・・残念ながら小袖は「片身替わり」ではないのですが、口ひげは先端でピンと跳ね、少々の顎髭をたくわえ、扇子の握りのさまからまさに「敦盛」を舞っている最中の若かりし(「出陣の舞」よりも)信長公であります。(完)