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寺田寅彦ー「天災は忘れた頃にやって来る」ー

寺田寅彦(1878~1935)と言えば、夏目漱石の弟子であり、また「吾輩は猫である」の水島寒月や「三四郎」の野々宮宗八のモデルともいわれる、物理学者であり地震学者であり随筆家であり・・・・・今でいうマルチタレントです。その寺田寅彦の遺した有名な格言が標記です。関東大震災を経験した氏の警句でもあります。

が、私奴にとってそれよりも興味ある随筆が以下の文章です。1896年(明治29)の明治三陸地震津波(死者2万人以上)から37年後に起った昭和三陸地震津波(1933年=昭和8年・死者3,064人 )の直後、寺田寅彦は『 津浪と人間 (1933(昭和8)年5月)』と題する随筆で以下の文章を遺しています。。

「同じような現象は、歴史に残っているだけでも、過去において何遍となく繰返されている。歴史に記録されていないものがおそらくそれ以上に多数にあったであろうと思われる。現在の地震学上から判断される限り、同じ事は未来においても何度となく繰返されるであろうということである。
こんなに度々繰返される自然現象ならば、当該地方の住民は、とうの昔に何かしら相当な対策を考えてこれに備え、災害を未然に防ぐことが出来ていてもよさそうに思われる。これは、この際誰しもそう思うことであろうが、それが実際はなかなかそうならないというのがこの人間界の人間的自然現象であるように見える。
津浪に懲りて、はじめは高い処だけに住居を移していても、五年たち、十年たち、十五年二十年とたつ間には、やはりいつともなく低い処を求めて人口は移って行くであろう。そうして運命の一万数千日の終りの日が忍びやかに近づくのである。
これが、二年、三年、あるいは五年に一回はきっと十数メートルの高波が襲って来るのであったら、津浪はもう天変でも地異でもなくなるであろう。
しかし困ったことには『自然』は過去の習慣に忠実である。地震や津浪は新思想の流行などには委細かまわず、頑固に、保守的に執念深くやって来るのである。紀元前二十世紀にあったことが紀元二十世紀にも全く同じように行われるのである。科学の方則とは畢竟『自然の記憶の覚え書き』である。自然ほど伝統に忠実なものはないのである。それだからこそ、二十世紀の文明という空虚な名をたのんで、安政の昔の経験を馬鹿にした東京は大正十二年の地震で焼払われたのである。」

私奴の結論は、これなのです。震源域が能登半島西方沖から佐渡島西方沖にかけて伸び150kmにも及んだ、2000年に一度ともされる能登地震(気象庁による正式名称は「令和6年能登半島地震」)は、離散する住民も少しではないかもしれませんが、今や復興に向けて一生懸命です。関東大震災が近いからと言っても東京の一極集中は相変わらず、少なくとも人口の減少はありません。東北沿岸部には海岸の景色を完全に覆い隠す高々の防潮堤が果てしなく続いています。そのうち高いところから海岸端の低地に移動するやもしれません。

「災難は忘れ頃にやって来る」から「備えあれば患いなし」なのでしょう。自分の命は自分で守る・・・・・・に限るのであります。

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