「万民の上に位する者、己れを慎み、品行を正くし驕奢を戒め、節約を勉め、職事に勤労して人民の標準となり、下民其の勤労を気の毒に思ふ様ならでは、政令は行はれ難し。然るに草創の始に立ちながら、家屋を飾り、衣服を文り、美妾を抱へ、蓄財を謀りなば、維新の功業は遂げられ間敷也。今となりては、戊辰の義戦も偏へに私を営みたる姿に成り行き、天下に対し戦死者に対して面目無きぞとて、頻りに涙を催されける。」(「西郷南洲遺訓」第6条・山田済斎編 岩波文庫・P6)
この文章は、「西郷南洲遺訓」の一文である。「西郷南洲遺訓」とは、
戊辰戦争で奥羽越列藩同盟軍が敗れた時(1968年5月)、西郷隆盛は出羽庄内の町を焼き払うことをしなかったし、藩の取りつぶしもなかった。それに感服した出羽庄内藩第11代藩主、酒井忠篤(さかいただずみ・1853~1915)は、戦後の1870年(明治3年)、自ら旧庄内藩士多数を伴い鹿児島の西郷隆盛を訪ね、教えを請うた。西郷隆盛が1873年(明治6)、征韓論に敗れて鹿児島へ下野した後も同藩有志が1875年5月までに数度、鹿児島市武の西郷邸を訪ね、西郷の話の聞き、その内容を書き残し、1889年(明治22年・大日本帝国憲法公布)、西郷の名誉回復と上野公園の銅像建立が成ったのを機に1890年(明治23年)、「南洲翁遺訓」を発行した・・・・・・のである。
昨今の自民党の裏金(キックバック)問題、安倍派5人衆の「人としての情けなさ」にもうんざりである。会計責任者や秘書に全責任を押し付け、某氏に至っては、俄かに、地元の「駅立ち」で小さなチラシを配って自己弁解している。見苦しいにも程がある。
西郷さんなら、何を語って彼らの精神を諫めたであろうか。それにしてもキックバックの裏金で「家屋を飾り、衣服を文り、美妾を抱へ、蓄財を謀って」いないのか。自身の潔白を言うのなら、使途の証明をしなさい。銀座や赤坂のクラブや高級飲食店で飲み食いし、妾さんを囲い、「児孫の為に美田を買っていないか」というのが国民が持っている、不「信」なのである。
西郷さんは、「戊辰の義戦も偏へに私を営みたる姿に成り行き、天下に対し戦死者に対して面目無き」として、頻りに涙を拭いたのですぞ。あなた方の涙顔や涙声は、誰への、どのような意味での「涙」ですか。とても一国のリーダー(首相)になるには、失格です。潔く、身を処しなさい。