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壺中の別天地-その3・奈良篇-

●今月の「壺中の別天地」と居酒屋紀行は奈良と「司馬遼太郎記念館」でした。日本史は選択していませんでしたので少し不得手であります。子供の中学・高校の教科書を参考にして復習してみますか。ここでのまずは「邪馬台国」から話をはじめましょう。(それ以前の、たとえば「三内丸山遺跡」(青森市)などについては秋の版にしようと計画しています)。邪馬台国が存在した地域で最も有力なのは奈良県桜井市の三輪山の北西麓一帯にある纒向遺跡(まきむくいせき)とされ、ここには弥生時代末期から古墳時代前期にかけての集落遺跡があります。
596年(推古4):蘇我馬子が法興寺(飛鳥寺)を建立。
601年(推古9):聖徳太子斑鳩宮を造営。
607年(推古15):聖徳太子が法隆寺を建立。
643年(皇極2):朝廷を飛鳥板蓋宮(飛鳥宮)に移す。
645年(皇極4):中大兄皇子と中臣鎌足が飛鳥宮で蘇我入鹿を暗殺(乙巳の変)。
670年(天智9):法隆寺焼亡。
672年(弘文・天武1):壬申の乱飛鳥浄御原宮に遷都。
694年(持統8):藤原京に遷都。
710年(和銅3):平城京に遷都。奈良時代へ
712年(和銅5):「古事記」完成。
720年(養老4):「日本書紀」完成。
752年(天平勝宝4):東大寺大仏開眼東大寺二月堂修二会開始。
753年(天平勝宝5):唐の僧・鑑真来日。
759年(天平宝字3):鑑真が唐招提寺創建。
768年(神護景雲2):春日大社創建。
794年(延暦13):桓武天皇が平安京に遷都。平安時代始まる
つづく。7月16日。

●ランキングもさまざまでしょうが、「歴男が選ぶおすすめの奈良の寺院ランキング」というものがネットにありました。10位が長谷寺、9位が談山神社、8位が橿原神宮、7位が室生寺、6位が唐招提寺、5位が薬師寺、4位が興福寺、そしてベスト3は、3位が春日大社、2位が法隆寺、1位が東大寺・・・・・・でした。ベスト10はランキングの調査方式でいろいろのようですが、1位が東大寺、2位が法隆寺というのは多くのランキングで一致しているようです。私の今回の奈良の旅は、恥ずかしいながら初めてであります。高校の修学旅行の3つのコースのひとつが奈良・京都方面だったと記憶しています。その時は経済的な理由で参加できませんでした。それだけに今回の事前調査には念を入れました。奈良の有名寺院を隈なく訪問するには1週間も2週間も掛かることが分かりましたので、それならばランキングを見てみようと考えました。そうすると私の考えいたった順位と歴男ランキングがほぼ一致していたので、我ながら偶然の御満悦といったところでした。今回は時間も極めて限られ、それも急遽夕刻には上京する羽目になりましたので、せいぜい2箇所に絞らなくてはなりませんでした。司馬さんの「街道をゆく・24・近江散歩/奈良散歩」には宮大工、西岡常一氏の「いい話」を引用しながら薬師寺の技術的な優越性が書かれていますし、井上靖の「天平の甍」の鑑真和上像のある唐招提寺も外せないのですが、鑑真さんは年に3日間(6月5・6・7日)しか開帳されません。結局そんなこんなの理由で、東大寺と法隆寺を選択しました。東大寺南大門の金剛力士立像大仏殿の大仏様法隆寺五重塔正岡子規の「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の句碑です。そして何よりは東大阪市の「司馬遼太郎記念館」です。つづく。7月16日。

法隆寺とは・・・・・・入場チケット付属の「法隆寺畧縁起」を参照。
○法隆寺は飛鳥時代の姿を現在に伝える世界最古の木造建築。
○用明天皇が自らの病気の平癒を祈るため寺と仏像を造ることを請願したが、実現の前に崩御。
○推古天皇と聖徳太子(574~622・用明天皇の皇子)が用明天皇(?~587・在位585~587)の遺願を継いで、推古15年(607)に建立。
○本尊は「薬師如来」。
○境内の広さは18万7千平方メートル。
○国宝・重要文化財は約190件、総点数は約3000点。
○1993年12月、ユネスコの世界文化遺産として日本初の登録。

<国宝・法隆寺金堂(飛鳥時代・仏教渡来から大化の改新=645年まで or 聖徳太子摂政就任の593年~大化の改新または平城遷都=710年まで)>
○法隆寺御本尊を安置。
○聖徳太子のために造られた金銅釈迦三尊像(飛鳥時代)。用明天皇のために造られた金銅薬師如来坐像(飛鳥時代)。聖徳太子の母君穴穂部間人皇后のために造られた金銅阿弥陀如来坐像(鎌倉時代)。樟で造られた日本最古の四天王像(白鳳時代)などの仏像が安置される。

<国宝・法隆寺五重塔(飛鳥時代)>
○塔はストゥーパともいわれ、釈尊の遺骨を奉安するための建物。
○仏教寺院で最も需要な建物。高さ32.5mの、わが国最古の五重塔である。
○最下層の内陣には、奈良時代のはじめに造られた塑像群がある。

<現存の法隆寺再建の謎>
○法隆寺は607年、聖徳太子が飛鳥から斑鳩へ都を移す時に建てられた(聖徳宗の総本山)。法隆寺は607年、聖徳太子が飛鳥から斑鳩へ都を移す時に建てられた(聖徳宗)。法隆寺の一翼を担う西院伽藍を形成する法隆寺金堂、五重塔、中門に使用されているヒノキやスギの部材は650年代末から690年代末に伐採されたものであるとされ、法隆寺西院伽藍は7世紀後半の再建であることが確定している。問題は、金堂の部材が年輪年代からみて650年代末から669年までの間の伐採で、日本書紀の伝える法隆寺炎上の年である670年よりも前の伐採と見られることである。伐採年が日本書紀における法隆寺の焼失の年(670年)を遡ることは、若草伽藍が焼失する以前に現在の伽藍の建築計画が存在した可能性を示唆している。法隆寺の建立と再建には現在も諸説存在するが、発掘調査などにより、若草伽藍跡こそが創建法隆寺であり、これが一度焼失した後にあらためて建てられたものが現存する法隆寺西院伽藍であるということが定説となっている。五重塔の心柱の用材は年輪年代測定によって確認できる最も外側の年輪が594年のものであり、この年が伐採年にきわめて近いと発表されている。他の部材に比べてなぜ心柱材のみが特に古いのかという疑問が残っているが、心柱材については、聖徳太子創建時の旧材を転用したとも考えられている。
若草伽藍(わかくさがらん):奈良県生駒郡斑鳩町の法隆寺西院伽藍南東部の境内から発見された寺院跡である。創建時の法隆寺であると考えられることから、創建法隆寺とも呼ばれる。(Wikipediaなど参考・転写)。つづく。7月21日。

●法隆寺を訪ねた目的のもうひとつは(勿論いちばんは世界最古の木造建築をこの目で見ることでした)、正岡子規の句碑と並んで写真を撮ることでした。「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」は、正岡子規が生涯に詠んだ20万のうち最も有名な句であり、芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」と並ぶ日本の2大名句(誰でも知っている大衆句として)であります。「法隆寺に立ち寄った後、茶店で一服して柿を食べると、途端に法隆寺の鐘が鳴り、その響きに秋を感じた、というのが句意である。・・・・・・『鐘が鳴るなり』と因果関係があるわけではない。柿は大和名産の御所柿と思われる。」とWikipediaにあります。法隆寺では作務衣を着た10人ほどの係員が案内していましたが、句碑のある池の辺に近づくとそのひとりが「秋には門前で柿2個が配られますよ」と教えてくれました。JA奈良が奈良特産の柿を多くの人に知ってもらおうと、「柿の日」の10月26日に法隆寺でも無料で配布するそうです。法隆寺の時の鐘が鳴るのを待って食うのでしょう・・・・・・。7月22日。

●奈良・東大寺の本尊である大仏の正式名称は、東大寺盧舎那仏像(とうだいじるしゃなぶつぞう)であり、金堂は東大寺大仏殿(国宝指定は1952年=昭和27)です。聖武天皇の発願で天平17年(745年)に制作が開始され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養会(かいげんくようえ、魂入れの儀式)が行われました。その後、中世、近世に焼損したため大部分が補作されており、当初に制作された部分で現在まで残るのはごく一部であります。 「銅造盧舎那仏坐像」の名で彫刻部門の1958年(昭和33)、国宝に指定されました。以下も以上もですが、東大寺大仏建立までの経緯を、Wikipediaの文章を借用させてもらいます。
「正史『続日本紀』、東大寺の記録である『東大寺要録』が引用する『大仏殿碑文』『延暦僧録』によれば、大仏造立の経緯はおおむね次の通りである。
天平12年(740年) – 聖武天皇は難波宮への行幸途次、河内国大県郡(大阪府柏原市)の知識寺で盧舎那仏像を拝し、自らも盧舎那仏像を造ろうと決心したという。(続紀)
天平13年2月14日(741年3月5日) – 聖武天皇が国分寺・国分尼寺建立の詔を発する。(類聚三代格など)
天平15年10月15日(743年11月5日) – 聖武天皇が近江国紫香楽宮にて大仏造立の詔を発する。(続紀)
天平16年11月13日(744年12月21日) – 紫香楽宮近くの甲賀寺に大仏の骨柱を立てる。(続紀)
天平17年(745年) – 恭仁宮、難波宮を転々としていた都が5年ぶりに平城京に戻る。旧暦8月23日(745年9月23日)、平城東山の山金里(今の東大寺の地)で改めて大仏造立が開始される。(碑文)
天平18年10月6日(746年11月23日) – 聖武天皇は金鐘寺(東大寺の旧称)に行幸し、盧舎那仏の燃灯供養を行う(続紀)。これは、大仏鋳造のための原型が完成したことを意味すると解される。
天平19年9月29日(747年11月6日) – 大仏の鋳造開始。(碑文)
天平勝宝元年10月24日(749年12月8日) – 大仏の鋳造終了。(碑文)
天平勝宝4年4月9日(752年5月26日) – 大仏開眼供養会が盛大に開催される。(続紀)」
つづく。7月23日。

●南大門
①東大寺の正門で、現存する門では日本一。
②創建は天平勝宝8~天平宝字6年(756~762)と推定。
③初代門は962年(応和2)の大風で倒壊。
④再建されるが、1180年(治承4)の兵火で消失。
⑤現在の南大門は、鎌倉時代、東大寺復興を推進した重源(1121~1206)が再建し、1199年(正治元)に上棟。
⑥再建には中国の工人・陳和卿(ちんなけい)らの知識を総動員し、新たな工法を考案した。重源はその前、三度宋に渡って南宋の建築様式(大仏様=天竺様)を見聞。天井は張らずに構造が露見。肘木という材が柱を貫通。この様式は和様建築にはない。これで耐震性は抜群のアップ。
参考「ガイドブック東大寺 散策案内 歴史と美術」(社)大仏奉賛会 発行・東大寺監修・文 石井亜矢子・2002年発行。

●金剛力士立像
①寺を外敵から守る。仁王とも呼ぶ。
②阿形と吽形が向かい合うのは他にない。
③像高8m、総重量6t。国宝指定の木彫像では最大。1203年にわずか69日で完成。運慶・快慶・定覚(じょうけい)・湛慶(たんけい)ほか作。総指揮は運慶?
④寄木造のため大木が必要ない・分業できる・持ち運びが容易などの利点。1196~1201年に伐採された周防国のヒノキ。
⑤初めは南向きに並んで安置される予定が、制作過程で向かい合わせになったため、修正や手直しの跡がうかがわれる。8月3日。
参考「ガイドブック東大寺 散策案内 歴史と美術」(社)大仏奉賛会 発行・東大寺監修・文 石井亜矢子・2002年発行。

●大仏様と大仏殿(金堂)
南大門を抜けると真正面が東大寺大仏殿である。御本尊を安置する建物で、金堂ともいう。東大寺の御本尊は盧舎那仏(毘盧遮那仏とも)で、天平17年(745)に聖武天皇の発願により銅像の大仏様の建立が決定。天平19年(747)に大仏鋳造が開始。天平勝宝4年(752)に大仏が完成し、盛大に開眼供養会が営まれた。大仏の高さは18m、使用した銅は500tに及ぶという。大仏殿はその後から建設が始まり、天平勝宝9年(757)の聖武天皇一周忌に完成したと推定されている。造立後の大仏様は、1180年(治承4)と1567年(永禄10)の2度、兵火によって多大の損壊を受けた。大仏殿は最初の兵火で消失、1195年に再建されたが、2度目の兵火後は長く再建されず、1692年(元禄5)に再建された。現在の大仏様は、この元禄時代の3代目の建物である。正面幅は57m、高さは49mであり、世界最大の木造建築である。再建された大仏殿は、創建時の建築様式(中国・唐の様式)とは異なり、正面の大きさも1.5倍であった。現在の南大門は鎌倉再建時の大仏殿建築様式を偲ばせる建築である。しかし大仏様は、銅製であるため、大仏殿の全壊に比べ損傷は少なく、後かともなく溶け落ちることはなかった。とくに下半身から蓮華座にかけては創建時のままという。その都度、修理を行ったため、今の大仏様は、顔はつるつるだが、体には無数の傷が残る。大仏様の掌には水掻きが見られる。これは大海原も泳ぐ苦行の為、水1滴も漏らさず人々をすくい上げるためとも。8月6日。
参考「ガイドブック東大寺 散策案内 歴史と美術」(社)大仏奉賛会 発行・東大寺監修・文 石井亜矢子・2002年発行。

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