コンテンツへスキップ

2月3日(火)-宮本武蔵の「五輪書」を読む-

 「兵法の道、二天一流と号し、数年鍛錬の事、初而書物に顕さんと思ひ、時に寛永二十年十月上旬の比、九州肥後の地岩戸山に上り、天を拝し、観音を礼し、仏前にむかひ、生国播磨の武士新免武蔵守藤原の玄信、年つもつて六十。
 我、若年のむかしより兵法の道に心をかけ、十三歳にして初師而勝負をす。其あいて、新当流有馬喜兵衛といふ兵法者に打勝ち、十六歳にして但馬国秋山といふ強力の兵法者に打勝つ。廿一歳にして都へ上り、天下の兵法者にあひ、数度の勝負をけつすといへども、勝利を得ざるといふ事なし。其後国々所々に至り、諸流の兵法者に行合ひ、六十余度迄勝負すといへども、一度も其利をうしなはず。其程、年十三より廿八、九迄の事也。
 我、三十を越へて跡をおもひみるに、兵法至極してかつにはあらず。をのづから道の器用有りて、天理をはなれざる故か。又は他流の兵法、不足なる所にや。・・・・・」。

 これは宮本武蔵(1584?-1645年6月13日)の著で、かの有名な「五輪書」(渡辺一郎校注、岩波書店)の書き出しである。平易な文で読み易いが、要約すると 「武蔵は播磨に生まれ、小さいときから武道に励み、13歳で初めて勝負をし、16歳で強豪に打勝ち、21歳で上京して都でも打勝ち続け、その後も諸国を巡って28か29歳まで決闘をした。その間の勝負数は六十回を超えた。自身には生まれつきの武芸の才能が備わっていたのか、あるいは相手が弱かったのか・・・・・」という内容である。

 あの「直木賞」は直木三十五(1891-1934)の業績を記念し、昭和10年(1935年)に創設されたが、彼の著書に「宮本武蔵」がある。武蔵は宮本無二斎の一子で、幼名を「弁之助」といった。12歳の時、村祭りの太鼓たたきを見て、両方の手でも左右差無く剣が使えるのではないかと考え、実践・鍛錬した。これが「二刀一流」(二天一流)の由縁である。しかし、実際の「決闘」では二刀を使用することは一度もなかった。最初の決闘は13歳で、相手は有馬流の有馬喜兵衛で、城下で「試合望勝手次第可致」と札を立てていたため、それが武蔵の耳に入ったことが発端である。この時代の剣での決闘はほとんどが「真剣」勝負であったが、有馬との試合では、武蔵は「棒をすてると、無手と、喜兵衛に組ついて・・・・・、有馬を頭上へ差し上げると、力任せに、大地へ叩きつけた。」とある。

 佐々木小次郎(1612年5月13日没)こと、佐々木巌(岩)流との船島での決闘では、武蔵は「技量伯仲」とみて、事前に巌流の刀・「備前長船長光」の長さを聞いておき、それよりも長い木刀を作り、かつ時間にかなり遅れて、小次郎をイラつかせたとされる。そして「「この勝負は、わしの勝ちじゃ」と声をかけ 「何と申す」と小次郎が答えると 、「勝つ気なら、鞘は捨てぬぞ」」と心理戦を仕掛けた。

 1640年に細川(忠利)家に客分として入る。「正保二年五月十九日に、熊本城の邸で死んだ。六十二とも、六十四とも云う。鎧をつけさせて、飽田郡五丁手永弓削村へ葬った。武蔵塚として、今に残っているのが、それである。」

 スーパー映画スターで、「ドラゴンシリーズ」のブルース・リー(李小龍、1940-1973)の座右の書は「五輪書」であったと聞いたことがある。「武蔵は天才か」という素朴な疑問。野球のイチローやゴルフの石川遼・・・・・、もって生まれた素質も重要だが、幼少からの「きっかけ付け」と「鍛錬」とが大きく関与していると思われてならない。

 武蔵は1600年の関ヶ原の戦いをはじめ、大阪冬の陣(1614)・夏の陣(1615)や島原の乱(1637-1638)などにも参戦した。「五輪書」でも28歳か29歳が最後の「決闘」とあるので、1612年5月13日の小次郎との戦いが最後となるのであろうか。しかし実際の戦(いくさ)はその後も続いたことになる。多くの決闘や戦に向かった「剣豪・武蔵」のおもいはいかほどのものであったろうか。平和な現在、「100年に一度の世界不況」は「武蔵のおもい」に比べれば、「屁の河童」に違いない。まさに「一億2千万、総奮起」しなければならない。最後に、現代の若き「剣(クラブ)豪・遼」のマスターズでの活躍を祈ろう。

先頭へ