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6月4日(木)-巨匠たる所以-

 川端康成は「伊豆の踊子」を完成させるのに4年半を費やした。それも湯ヶ島の旅館に滞在し、その間殆ど宿賃を払わなかったと言われている。川端康成は1917年に旧制第一高等学校に入学し、翌年(1918年)の秋に伊豆へ旅行し、以後10年間、湯ヶ島湯本館へ通った。「伊豆の踊子」は1918年の旅芸人とのやりとりとされる。「伊豆の踊子」は1926年に発表されているから、実に8年の歳月を経て熟成されたノーベル作品である。長期の滞在で、温泉場と温泉旅館、それに旅芸人など、すべてを直に素肌で感じ続けたことが「伊豆の踊子」を世に出したのである。川端康成は書画にも造詣が深かったのも有名である。与謝蕪村(1716-1784)の国宝「十便十宜図」(1771年、池大雅との競作、川端康成記念会所蔵)を入手した目利きでもある。何かで読んだが、○○新聞の原稿料を前借してこの国宝を手にしたという。

 世界に認められた日本人の画家と言えば、奈良良智?、村上隆?、千住博?・・・いやいやそうではあるまい。棟方志功や岡本太郎、荻須高徳等の名が挙がるであろう。その中でも筆頭格は「藤田嗣治」である。太平洋戦争中、従軍画家のトップに君臨し、戦後「戦犯」として取り沙汰された人物だ。Fujitaはパリでピカソらとの親交が深かった。ある日、ピカソがFujitaのアパートを訪ねたとき、いつもの如く面相筆で修行中であった彼は、ピカソの声が聞こえるなりベットにもぐりこんだ、という。修行に勤(いそ)しむ姿を天才・ピカソに見られたくなかったのである。筆を持ったFujitaを見た人物は極めて限られているという。面相筆で猫を描いている「土門拳」の写真がある。(梅原龍三郎も写真を撮られることを極端に嫌ったという。アトリエでカメラを向けた土門拳に椅子を投げつけたのは有名な話だ。)
 
 西の「栖鳳」、東の「大観」とは日本画の両雄を指した言葉で、京都の竹内栖鳳と水戸生まれの横山大観のことである。小生風には西の「玉堂」、東の「大観」としたいところだ。玉堂は言わずもがなの愛知出身の川合玉堂である。玉堂は梅原龍三郎や小倉遊亀、中川一政などの巨匠と違わず、現場での「写生」を重んじた一人である。玉堂は風景画を得手とするが、画風はオリジナリティーが高く、麓で写生した絵を持ち帰り、それを山頂からみた構図に変えて本画とするところにある。

 親仁の説教じみたボヤキも聞きたくはあるまいが、若い獣医師に事あるごとに垂れる一節がある。診療は誠実・繊細・果敢でなければならないが、それにも増して、「勉強は隠れてやれ!」と言うことだ。静かなところで沈思黙考しないと、何事も身につかない。凡人が非凡人になるには、隠れて努力する道があるのである。

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