夏休みに入って、日焼けした健康的な子供が犬、猫の連れで親と来院する。友だちが連れ合っての場合もある。時代は大分変った。小生が小学生だった40年前の夏休みの、とある1日を思い起こして見た。
所は東臼杵郡南郷村神門(現・美郷町南郷区)。小学校までちょうど一里(約4㌔)。徒歩で1時間だ。
農家の朝は早い。6時には障子が開けられ起こされる。6時半に始まる部落の小中学生が集まっての「ラジオ体操」に参加しなくてはならない。場所は、歩いて15分かかる公民館だ。NHKのラジオ体操第1と第2をやって、専用の出欠カードに朱印をついてもらって帰る。理由なく休むと、10日に1回の登校日、先公に怒られた。
朝飯は豆腐の入った味噌汁があれば馳走だ。当時、親父が炭焼きをやっていたので早々に「炭山」へ連れていかれる。立木が無くなると次の山で新たに炭窯を作って焼く。現場まで優に1時間はかかる。われわれ子供の仕事は切った木を肩に担いでひたすら窯まで運ぶことだ。(成長期だったため、小生の左肩は今でも右に比べて落ちている。)急な斜面もあり、転ぶこともしょっちゅうで、生傷は絶えたことがなかった。蛇、ムカデ、ゲジゲジは毎日見かけ、時にはイノシシにも遭遇する。昼飯はぎっしり詰まった「めんぱ」(田舎では「まげ」と言う。薄目の杉木を円く曲げて作るのでそう言う)の飯と、傍の谷の岩に生えた「いわじちゃ」という、かなり苦い葉っぱで親父がつくる味噌汁に梅干。「鯖缶」や「鱈の塩物」などあれば馳走である。かく汗も半端ではないから、塩分と炭水化物が有れば良しとなる。
「窯くべ」と言って、木を窯にきちんと並べて入れ、燃やし始める作業がある。「くべる」とは標準語で「焼べる」と書く。このときばかりは日が暮れて随分と経っても帰れない。8時ごろに蝋燭で灯す「提燈」で山を下りたこともある。それから「五右衛門風呂」に水を溜めながら沸かす。食欲が失せる程に疲れたこともある。
何日に1回は、4時ごろに帰れることが有る。そのときは兄貴と猛ダッシュで山を駆け下り、家の下の川へ直行し、ドボンである。タダでは泳がない。「金突き=かなつき」(これも標準語)を持って潜り、魚を獲る。親父の焼酎の肴である。
大雨の日と、前夜(前の晩)親父が飲みすぎて二日酔いだと嬉しい。「炭山」は休業である。特に二日酔いの時は天にも昇る気持である。朝9時には川へ行く。泳ぎではなく魚獲りである。目当ては鮎と「榎葉=えのは」(ヤマメの方言)。鮎は突くこともあるが、ふつうは鮎の習性を利用した「ちょんがけ」で掛け、榎葉は金突きで獲る。鮎は日に10~20匹獲った。昼も帰らず、持参の白飯と梅干で、魚を塩で焼いて食った。マッチは家から持ち出したが、当時、此れしきのことで咎(とが)める人間は周りに居なかった。
帰ると、いつもの「風呂焚き」と「牛養い」が待っている。風呂は「松」を鉈(なた)で削って、火をつける。牛の青草は田の畦(あぜ=畔(くろ))や土手に行き鎌で切る。今でも当時ついた鉈と鎌の傷が手に見事に残っている。
遊びも沢山あった。クワガタ獲り。ビニール袋と針金と竹で拵(こしら)えた蝉(虫)獲り。自作の金突きやちょんかけ棒での「川いじり」。ウナギを獲るための餌になる「アブラメ」、それを大漁にするための「ヒビつけ」(標準語)。・・・・・などなど・・・、辛いことと楽しいことが、日に何回も代わる代わる訪れる、まさしく悲喜交々(こもごも)な、歌の文句ではないが、40年前の「僕の人生」である。
実家にはエアコンがいまだにない。けっこう涼しくて不要なのだ。40年前は晩になると蚊に悩まされた。蚊取線香が買えなかったので、古着を湿らせて火をつけ代用した。蚊帳(かや)の中の睡眠は本当に疲れが取れた。
今年は例年になく蝉が忙しなく鳴いている。小生の今までの生涯で「炭山」はもっとも辛い「仕事」であった。「炭山」は小学3年生から、中学1年の盆まで続いた。その後は親父が「出稼ぎ」に転向し、終わった。「炭山」への行き帰り、谷に籠る不思議な冷気。人間はやはり、「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」(松尾芭蕉)の境地でないと、妙案は浮かばない。