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10月31日(土)-県勢4大会ぶりの第82回選抜出場-

 第125回九州高等学校野球大会は秋雨前線と台風の影響を受け、今日が決勝戦となった。我が宮崎大会準優勝の宮崎工業が沖縄・嘉手納に挑んだが2対4で惜しくも敗れ、優勝を逃した。しかし、昨日の沖縄・興南高校に勝利した時点で、来春の甲子園選抜大会への出場を決定的とした。
 県大会優勝の日南学園は優勝の嘉手納に1対2で初戦敗退。県大会3位の宮崎商業は初戦で大分に12対2の5回コールド勝ちしたが、次の長崎商業戦では0対1の惜敗。同じく4位の宮崎日本大学は鹿児島城西に1対3の初戦敗退。
 準優勝の宮崎工業は県大会準優勝で、一回戦が鹿児島実業を5対1、準々決勝が福岡工大城東を5対2、準決勝が興南を3対2でそれぞれ降した。
 ベスト4は優勝の嘉手納、準優勝の宮崎工業、準決勝で嘉手納に負けた福岡・自由ケ丘、同じく宮崎工業に敗れた興南の4校である。自由ケ丘、興南共に準決勝で大敗しなかったため、選抜出場は濃厚である。
 宮崎工業高校は、前身の大淀高校時分の1958(昭和33)年の夏と1960年夏の計2回、甲子園に出場している。1958年の第40回大会では初戦の2回戦で甲府商業(山梨)と対戦し4対3で勝利したが、3回戦では優勝校の柳井高校(山口)に4対3で敗れている。2年ぶり2回目出場の第42回では初戦の明石高校(兵庫)に4対0で敗退。九州大会で決勝に進出したのは1959年春(第24回大会)以来で、この時は三池高校(福岡)に1対0で惜敗している。残念ながら、春の大会は甲子園とは無縁のため、準優勝でも甲子園には行けない。
 宮崎工業高校の沿革というか、歴史を調べてみた。昔の学制は複雑極まりなくて閉口しきりだが、明治38年5月の宮崎郡立職業学校を皮切に、5回の学制改革を経て、当時の県立第二宮崎高等女学校と宮崎県立宮崎工業高校、それに宮崎県立宮崎農学校の3校が統合して昭和23年4月に県立宮崎大淀高等学校ができた。そして昭和34年4月に県立宮崎農業高等学校が分離し、次いで昭和37年4月に県立宮崎大淀第二高等学校(昭和38年4月に県立宮崎南高等学校)が分かれ、最後に残ったのが昭和40年4月に県立宮崎工業高等学校と改名して現在に至る。因みに宮崎県立宮崎農学校の前身は明治26年4月に創設された宮崎獣医学校である
 そんな訳かどんな訳かは知らぬが、兎にも角にも目出度いことに宮崎から来春の甲子園出場が決定的になった。不祥事で出場辞退なんてことが無いよう、学校関係者や父兄の方々の監督・指導に怠りの無き様、お願いしたい。過去に春夏併せて24校の出場辞退があり、最近では2006年春・第78回大会の駒大苫小牧(北海道)や2005年夏・第87回大会の明徳義塾(高知)の事例がある。特に24中20が春である。今から3月下旬の大会までの期間が長い。足腰と精神面の強化には十分すぎる時間がある。浮かれることの無きよう!!!
 県勢出場は第78大会(平成18年)の延岡学園以来の4大会ぶり。宮崎、いや全国の高校野球ファンを楽しませてもらいたい。

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