いつものことだが、池波正太郎の「男の作法」(新潮文庫86~88ページ)の中に「万年筆」というのがある。
「万年筆とかボールペンとかサインペン、そういうものは若い人でも高級なものを持ったほうが、そりゃあ立派に見えるね。万年筆だけは、いくら高級なものを持っていてもいい。つまり、いかに服装は質素にしていても万年筆だけは、たとえばモンブランのいいものを持っているということはね。アクセサリー的な万年筆がふえたけど、そういうのはだめ。そうじゃなくて、本当の万年筆として立派な機能を持った万年筆はやっぱり高いわけだから、そういうものを持っているということは若い人でもかえって立派に見える。」
先月の30日は小生の五十路突入の誕生日であった。娘から小さな包みを受け取り開けてみると、ペリカンのボールペンであった。値段はともかく、替え芯も3本ついていて、診療のカルテ書きにしばらくは使えそうである。万年筆は4、5年前に自分で買ったモンブランとペリカンを1本ずつ持っている。進物などに一文を添える特別な時に使う。インクはボトルインク・墨水(50ml、Made in Germany)を買ってある。万年筆を買ったわけ(理由)は言う迄もなく「男の作法」を読んだからである。人にもよるが、卒業祝などの贈り物にも万年筆は悦んでもらえる。
「職業とは無関係。だから、トンネルの工事をしている人が、そこでモンブランのいい万年筆を出して書いても、それはもう、むしろ立派に見えるわけですよ。そりゃあ万年筆というのは、男が外へ出て持っている場合は、それは男の武器だからねえ。刀のようなものだからねえ、ことにビジネスマンだったとしたらね。だから、それに金をはり込むということは一番立派なことだよね。貧乏侍でいても腰の大小はできるだけいいものを差しているということと同じですよ。・・・・・男っていうのは、そういうところにかけなきゃだめなんだ。金がなくっても。」
上の・・・・・には「気持ちとしてもキリッとするわけだよ、自分でも。高い時計をしてるより、高い万年筆を持っているほうが、そりゃキリッとしますよ。・・・」と書いてあるが、本当にそう思えるから、不思議である。
五十路突入は嬉しさよりも悲しいことである。娘は自分で考えてペリカンのボールペンを選んだのであろう。筆無精の小生が時折り万年筆で真剣にキリッと書いてる姿を思い浮かべて買い求めたのであろう。それが嬉しい。