広辞苑によると、「帽子」は①頭にかぶって寒暑または塵埃(じんあい)を防ぎ礼容をととのえるもの。今昔物語集(10)「小さき船に乗りたる翁の-を着たる」②烏帽子(えぼし)の略。③物の頭部にかぶせるもの。④⇒鋩子(ぼうし)に同じ。⑤囲碁で、相手の石を攻めるため、ニ路上からかぶせるように圧迫する手。帽子針:江戸時代、女性が外出する時にかぶる綿帽子をとめる針、などとある。
では、日本人が帽子を被るようになったのはいつ頃からであろうか。いろいろ調べるに、「中国の漢代(紀元前202年~9年)に被り物ができ、わが国では、神代紀の作笠(かさぬい)が、そのはじめといわれている。」(協同組合西日本帽子協会編、資料・小学館百科事典)とある。埴輪にも帽子を被っているものが発見されている。また興味あることに、丁髷(ちょんまげ)が関係していそうである。「髷」の起源は聖徳太子(574年-622年)の時代より前らしい。その時代の貴族たちがなぜ髷を結ったのかというと、「冠」(かんむり)を戴き易いように髪を頭上で束ねた。明治4年の「断髪令」が出るまで続いた丁髷が「月代」(さかやき)を剃った男性の髪型とすれば、その起源は月代が生まれた源平時代以前という。これは「玉葉」(九条兼実日記、安元2年7月8日)や「太平記」に記述があるという。
「冠」は、広辞苑によれば「①頭にかぶるものの総称。こうむり。かむり。かんぶり。かがふり。かぶり。」とある。Wikipediaでは「日本の冠は、公家や武家の成人が宮中へ参内などの際に頭に着用する被りもの。・・・・・古墳時代には、すでに金、銀、金銅などから成る冠や冠帽(帽子状の冠)が着用されていた。これらは、藤ノ木古墳など各地の古墳から出土している。」とある。
そして、烏帽子。「烏帽子は、奈良時代から江戸にいたる男子のかぶりもので、黒の紗、絹などで袋状に作ったやわらかなもので、本来は日常用のものであった。朝廷に出仕するときは冠をかぶり、日常は一般庶民と同様にかぶったわけである。」(同上)。
注①源平時代:源平2氏が武士の棟梁としてあらわれ、互いに盛衰興亡のあった時代。平安後期、11世紀末から12世紀末の約1世紀。(広辞苑)
注②太平記:「軍記物語。40巻。作者は小島法師説が最も有力。いくつかの段階を経て応安(1368~1375)~永和(1375~1379)の頃までに成る。北条高時失政・建武中興を始め、南北朝時代五十余年間の争乱の様を華麗な和漢混淆(こんこう)文によって描き出す。」(広辞苑)
注③古墳時代:「日本で壮大な古墳の多く造られた時代。弥生(やよい)時代についで、ほぼ3世紀末から7世紀に至る。ただし、土盛リした墓は弥生時代に始まり、古墳時代以降も存続。畿内を中心として文化が発達した時期で、統一国家の成立・発展と密接な関係があるとする説もある。」(広辞苑)
附録①綿帽子(わたぼうし):室町時代末期に老女の防寒用として生まれ、寛文期(1661年~1672年)末頃には真綿で作った帽子が若い女性にも定着した。花嫁には古来、結婚相手以外の男性に顔を見せない風習があり、頭も顔もすっぽりと隠せる綿帽子は花嫁に最適の被りものであった。「角隠し」と同格で、選ぶのは好み。(株式会社 二条丸八のHPより)。
附録②月代(さかやき)=月額:別名を「つきしろ」ともいう。男子が額から頭の中央にかけて頭髪をそり落としたことをいう。冠をつけたり、応仁の乱以後武士が冑を付けたとき、頭の「のぼせ」を防ぐために剃ったことから、逆気(さかいき)の転じたもの、との説(理容・美容学習辞典1968年度版)。「男の額髪を頭の中央にかけて半月形に剃り落としたもの。もと冠の下にあたる部分を剃った。応仁の乱後は武士が気の逆上を防ぐために剃ったといい、江戸時代には庶民の間にも行われ、成人のしるしとなった。つきしろ。ひたいつき。世間胸算用(2)「-剃りて髪結うて」(広辞苑)。
これが約800年(源平時代以前・11世紀末以前~1871年・明治4年の「断髪令」まで)間続いた冑(かぶと)の武士の時代と丁髷との関係である。「冑で頭が蒸れるため」と何かで読んだ記憶もあるが、これは入浴や洗髪・調髪の習慣が今のように進歩していなかったことも関係していよう。
つづく