コンテンツへスキップ

12月22日(火)-帽子の話-その4・「男」の帽子

 家の「おしゃれ」は「坪庭」。外からは見えない家の真ん中あたりにある「一坪ほどの庭」。客間や茶室から借景的に「坪庭」を眺める。これは紛れもない「おしゃれ」である。
 
 「侘(わび)・寂(さび)」の世界もそうだ。侘・寂とは「小さな藁ぶきの家に、馬から降りた武士が馬をゆるりと繋いで、その家に立ち寄り、小奇麗な家の火のある囲炉裏に座り、小奇麗な女主人から、例えば乾山作の茶碗でお茶を頂く」、ような世界をいうのだろうが、これも正真正銘の「おしゃれ」である。
 
 衣服・衣装の「おしゃれ」もいろいろあろうが、よく言われるのは「」であろうか。人によっては、アクセサリーや香水など、さまざまであろう。男性であれば「腕時計」と「眼鏡」、そして「帽子」であろうか。 
 
 帽子の似合う日本人。最近出た朝日新聞出版の「池波正太郎の世界②」の31ページに筒井ガンコ堂氏の文がある。その中に池波正太郎(1923-1990)への追悼で藤沢周平氏の文が紹介されている。「・・・・・帽子が似合う世代は池波さんやせいぜい山口瞳さんあたりでまでで・・・・・私はさりげなく襟にマフラーなどを巻いて帽子をかぶっている池波さんの写真を見ると・・・・・ダンディな雰囲気を感じ、作品にもそういう瀟洒な感覚が生きていると思う。」と。筒井氏自身も「たしかに、先生の五十代後半以降の帽子姿は実にキマッていたが、それに至るまでには、恐らく長年の習練があっただろうと私は勝手に推量している。・・・・・その意味で、先生の晩年の写真を見ると、藤沢周平氏が感嘆する通り、完璧に身に着いていて、粋なのだった。奥様が棺の中に愛用の帽子を入れられたというのも、先生にとって帽子が身から離すことのできない必需品だったことを証している。」
 
 池波正太郎ほどの人物にしても、帽子がフィットするのは、五十代後半か。小生の余生、いろんな味の人生を堪能させてもらい、帽子の似合う男に成長するよう、日々精進せねば男が廃(すた=頽=くずれる)るというものだ。

 今回で「帽子」は「」。完結。

先頭へ