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今週の親仁ギャグ・2010年2月28日(日)~3月6日(土)

●一昨日ケーブルテレビの関係者から連絡があり、来訪された。4月からの「新年度番組」の一企画として「わんにゃん健康教室」コーナーを設けるとの旨。週1の番組で週末5~6回放映されるとのこと。期間は1年と長い。ラジオでも少々往生気味ではあるが、犬猫の健康・病気のこととあらば奮起してみるか。初回撮影まで2週間痩せNEVER GIVE UP!!!(3月6日)

●3月2、3日は獣医師国家試験が福岡であった。たばる動物病院関係の3人も受験した(昨年は関係の3人が皆合格)。彼らのうちの2人は2年間、主に夜間病院で働いてもらったバイト生で、1人は4月からの本院勤務が、もう1人は福岡に就職が決まっている。残る1人の訳あり受験生は、6ヶ月余り働いたバイト生で、今日挨拶に来たが、手応えを感じているようだ。3人からの吉報を待つのみだ。この時期、26年前、小生がまだ24歳の3月を思い出す。当時は12月24日(クリスマスイヴ)頃が「卒論発表会」で、その日が研究室の忘年会を兼ねた打ち上げ。しこたま呑んで、下宿で寝ていたら、大家さんが「大学の庶務から電話で、実家にすぐ電話するように、・・・」とのこと。今のように携帯なんぞないので、公衆電話から掛けると、「祖母危篤」とのこと。年の瀬の葬式。明けてからの2ケ月間は、「国家試験」と「大学院博士課程の試験」勉強で辛い思いをした。大学院の試験で上京福岡での国家試験国試発表卒業式謝恩会実家での宴会引っ越し上京(このときは細島からフェリーで川崎に着いた)・・・と慌ただしい3月の1ケ月間であった。(3月5日)

●3日の「参院予算委員会」で3閣僚の遅刻。これぞ「参院遅参委員会」だ。怒ったのは「わたなべさん、まえはらさん、せんごくさん、えだのさん」発言の舛添要一前厚生労働相。新党でも作ろうかという鼻息の舛添氏も、参議院を舐めてかかった(舛添氏弁)、かつ緊張感(鳩君弁)とやる気が失せた(舛添弁)閣僚のうち2人が、皮肉にもそうであったから、大変だ。物事は最初(取っ掛り)が大切新党や合流話もこれで頓挫(とんざでなくとんだ)ことになった。舛添氏は、自民党のロートルからは睨まれるし、新党結成の「軍資金」は無いわで、御乱心の様相。沈着冷静が重要だ。国民はちょっとしたことでも「宰相の器」の資質を見逃さないのだから。(3月4日)

●「その時歴史は動いた」の最終章は、登場人物のその後。史実として認められている龍馬暗殺者今井信郎(1841-1919=大正8年)は、その後、戊辰戦争(1868-1869)を箱館まで戦い抜き、1870年(明治3年)、箱舘で降伏。そして官軍(薩摩軍)により逮捕され投獄。しかし、西郷隆盛(1827-1877)の計らいで釈放。西南戦争(1877)では、西郷軍支援のため、部下を集めて九州に向かうが、途中で西郷軍壊滅の報を受け解散。現・静岡県島田市(元・初倉村)に帰農し、村議と村長を勤めた。同じく佐々木只三郎(1833-1868)は戊辰戦争で幕府軍として鳥羽・伏見の戦いに参戦するが、樟葉(枚方市付近)で重傷を負い、死去。(3月4日)

坂本龍馬(変名・才谷梅太郎、1835-1867)の最期慶応三年(1867)十一月十五日(新暦の十二月一〇日)。場所は京都河原町の醬油屋の近江屋(主人は井口新助)。夜8時ごろ。刺客が近江屋を訪れ、龍馬の下男の山田藤吉に「私は松代(十津川)郷士だが、才谷(坂本)先生にお目にかかりたい、ご在宅か」と尋ねた。藤吉は「少々お待ち下さい」。2階の龍馬に取り次ぐため階段を上る藤吉を刺客が斬る。「ほたえな!」(土佐の方言で「騒ぐな」)と龍馬。「坂本先生、ごぶさたしています」と刺客。龍馬は中岡慎太郎(変名・石川誠之助、1838-1867)と2人でいたが、「どなたでしたか」と龍馬。刺客は龍馬がどちらか分かると、「こそくな」(この野郎)と叫びざま、刀を抜き打ちざまに龍馬の前額部を払った。龍馬の頭から脳漿が飛び散った。驚いて屏風の陰に置いてあった刀を取ろうとして背中を向けたところを斬られた。龍馬は床の間に掛けてあった大刀を取ろうとして背中を向けたところを斬られ、振り向きざま、握った大刀で鞘ごと防いだが、真っ向から振り降ろされて致命傷を負った。中岡慎太郎は腕・肩・胴・股など十二ヶ所を斬られたという。刺客のうちのひとりが「もうよい、もうよい」と言い残して出る。刺客たちがいなくなると、倒れていた龍馬が刀で身体を支えて立ち上がり、中岡に「しっかりしろ」と声をかけ、「新助、医者を呼べ」と叫ぶ。中岡に「わしはだめだ。脳をやられた」、「刀はないか、刀はないか」とつぶやきながら動かなくなった。結局、龍馬はほぼ即死。藤吉は翌日の十六日。中岡慎太郎は翌々日の十七日に死亡。「日本史 謎の殺人事件・楠木誠一郎著・二見書房」を一部改変・追加。※陸援隊:1867年に中岡慎太郎によって組織された討幕運動のための軍隊(浪士隊)で、土佐藩主山内豊信(容堂、1827-1872)を起源とする。(3月3日)

●陸援隊幹部の田中顕助(1843-1939)が受傷後2日間生き延びた中岡慎太郎から直接聞いた話。「突然ふたりの男が二階へ駆け上がってきて斬りかかったので、僕はかねてきみからもらっていた短刀で受けたが、なにぶん手もとに刀がなかったものだから不覚を取った。そうして坂本に斬りかかったので、坂本は左の手で刀を鞘のまま取って受けたが、とうとうかなわないで頭をやられた。そのとき坂本は僕に向かって、頭をやられたから、もうだめだ、といったが、僕もこれぐらいやられたから、とても助かるまい」という中岡慎太郎に、「長州の井上聞多もあれほど斬られましたが、まだ生きています。だから先生も気をたしかにおもちください」と励ましたという。(同上)(3月3日)

龍馬暗殺は誰の仕業か京都見廻組説、新撰組説、土佐藩説、薩摩藩説、伊呂波丸事件の後始末説がある。京都見廻説が有力であるが、これは元京都見廻組肝煎で衝鉾副隊長の幕臣・今井信郎が箱館戦争後に明治新政府の取り調べで、龍馬・中岡慎太郎殺害を認めた。その供述。「十一月の中頃、佐々木只三郎、今井信郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助、土肥仲蔵、桜井大三郎の七人で、龍馬の宿舎に捕縛にいった。こんどは、取り逃がさないように、手にあまれば討ち取ってさしつかえないというので、佐々木只三郎および渡辺吉二郎、高橋安次郎、桂隼之助が二階に踏みこみ、今井信郎、土肥仲蔵・桜井大三郎は見張りに立った・・・・・」。『龍馬暗殺の謎を解く』より。今井信郎の家伝や妻の口伝では今井信郎本人が斬ったように書いてある。直接手を下した人物としては、今井信郎・佐々木只三郎のふたりが有力で、のちに渡辺吉太郎も遺言でそれらしいことをいい残している。(同上)(3月3日)

●近くに本屋があるのはなんとも有難い。車で3分も行けば、明林堂・本郷店がある。何かを買おうという気もなく、時間をつぶす。今日は『日向路の山頭火』(山口保明著・鉱脈社・1995年)を買った。帰りしな、隣のコンビニへ。世界初のインスタントラーメン『チキンラーメン』(1958年=昭和33年発売)がなんと発売当時の35円(税込)、『カップヌードル』(1971年=昭和46年発売)がこれもなんと100円(税込)で売られていた(写真)。訳は、インスタントラーメンの父・「安藤百福(日清食品の創業者・1910-2007)」の生誕百年による。今日の夜食は玉子を乗せたチキンラーメンで決定丼の蓋を忘れないのが肝要じゃ。(3月3日)

●フィギュアスケートの血筋で際立つのが何と言っても「織田信成(のぶなり)」。戦国の天下人・織田信長(1534-1582)から数えて17代目の末裔である。信長の7男・織田信高からは16代目である。織田信長の血が流れる同姓同名は他に4人が居る(信成はのぶしげとも読む)。16世紀に描かれた国宝「松林屏風図」を主とした「没後400年特別展・長谷川等伯」が今、東京国立博物館で展覧中である。長谷川等伯(1539-1610)と「絵師」としての天下獲りを競った狩野派4代目・狩野永徳(1543-1590)が描いた「織田信長像」(大徳寺蔵)がある。17代目信成も口髭を生やしてちょいと畏(かしこ)まったら信長に似ていないか(下の写真、「美術の窓3月号38ページ」)。群雄割拠も困るが、強烈なリーダーシップを発揮する政治家は現われないものか。※狩野永徳は1565年、国宝「洛中洛外図屏風」(米沢市上杉博物館蔵)が有名(3月2日)

●文藝春秋3月特別号の「指導者」研究・ひとを動かす言葉の力のなかの豊田泰光氏書き下ろしの三原脩「同僚も敵だぞ、負けていいのか」(203~206ページ)が面白い。『・・・その頃の西鉄では、バントのサインは「丸」だった。指で丸を作ることもあれば、目をこするように円を描いたり、あくびで口を丸くあけたりしてもそれはバントのサイン。・・・ノーアウトランナー一塁の場面でバッターボックスに立った僕が、バントかと悩んで三原さんを見ると、三原さんはじっと空を見上げている。その視線の先にあるのはきれいな満月だった。・・・きれいだから見ていたんだろうと強打に出て、アウトになった。ベンチに戻ると三原さんが「お前、サインを見逃したな」と言う。・・・ベンチでは「わかるかどうか」と賭けまでしていたらしい。』。三原(1911-1984)監督の西鉄ライオンズは水原茂(1909-1982)率いる巨人に1956~1958年の日本シリーズで3年連続勝った。特に最後のシリーズは3連敗後、稲尾和久(1937-2007)の鉄腕で4連勝した。その後、三原監督はセ・リーグ最下位の大洋へ移った。『・・・大洋は打線は貧弱で、守備で勝つしかなあいチーム。三原さんはがっちりと守り、一点差で勝利を積み上げて見事にリーグ優勝を果たした。・・・三原さんが大洋に移ったあと、僕は多くの監督やコーチの下でプレーしたが、正直に言ってみんな大したことはなかった。プロ野球の監督に必要な要素は知性と度胸。どちらか一つあればいいのだが、どちらも持っていない人ばかり。三原さんは両方持っていた人だ。そんな監督を、三原さん以外に僕は知らない。』。(3月1日)

●昔から「逃がした獲物(魚)は大きい」という。県民挙げて早急な対策を考えないと、他のプロ野球球団やJ-リーグも撤退する可能性が高い。経済的損失を考えると捍(おぞま)しい限りだ。このままだと近々、「キャンプ王国」は終焉だ。(3月1日)

●この10年間、いやそれ以上であろうか、巨人の宮崎キャンプ・離県(撤退)話が持ち上がっていた。特に原辰徳監督になってからは耳に障るようになった。以前から、本県での「読売新聞の購読部数」が他県に比して少ないので、フロントの怒りを買っているということが、巷で実(まこと)しやかに囁かれていた。2007年5月の本県における読売のシェアは7.3%(35,526部)で他県と遜色ない(鹿児島県は4.2%で32,767部)購読部数であるから、これは当たらない。やはり、県民の認識の甘さが、巨人軍の一部撤退オープン戦の試合数減少の誘因であり、遠因であることは歪めまい。※朝日新聞のシェアは10.3%(49,789部)、毎日新聞は6.3%(30,383部)、宮崎日日新聞は47.8%(232,316部)である。(3月1日)

●主力選手のプレーを今春までの半分しか観れないと思うか、反対に半分も観れると思うか・・・。人脈などのつながりも大切であろうが、何といっても県民の努力である。沖縄も宮崎から全てを奪取する労を惜しまないであろうし、鹿児島などの他県も虎視眈々と狙っている。昨日(27日)の鹿児島(県立鴨池球場)での巨人対西武戦は球場が満席に近かった。同じ対戦カードでの客入りの差はフロントにどう映ったのであろうか。現に県内で開催されるオープン戦の試合数も減っている、・・・どころか今年は巨人対西武の1試合のみ。(3月1日)

●宮崎キャンプ52年目の来春から、巨人軍は沖縄県那覇市の奥武山(おうのやま)球場を第2キャンプ場とし、簡単に言うならば、宮崎キャンプの期間は半分になる。2月、宮崎のみでキャンプを張る球団は西武(南郷)ソフトバンク(生目)の2球団になる。現在の沖縄は、本島がヤクルトドラゴンズタイガース(兼・高知県安芸市)ベイスターズ広島(兼・日南市・主力は後半)日本ハムの6球団、久米島が楽天、石垣島がロッテ、宮古島がオリックス・バファローズの、計9球団がキャンプを張り、来春巨人が加わると何と10球団が犇(ひし)めく状態になる。選手の体調管理にはより温暖な沖縄が適しているのであろうが、どうもそれだけではないような気もしないでない。(2月28日)

●昼前に家を出て、一路サンマリンスタジアムへ。巨人対西武のオープン戦を観るため、先ずはチケットを求めて場外売場へ。内野指定席は完売で内野A自由席をゲット。開始まで小1時間、そうならば「宮崎うどんの名店」・「忠太郎」で第1食だ。揚げ玉(たぬき)饂飩といなり2個。これで観戦の腹ごしらえは万全。いざ、「サンマリン」へ。天気は快晴に近い抜群の空なのだが、観客は5~6分の入り。まさか「大津波警報」の余波ではあるまいが、スポーツランド宮崎」を標榜する割には、いつもの如く「実行」が伴わない。100億円を掛けて建造した代物。宿泊や飲食、交通で県外客が落としてくれる現ナマ。税金は当然ながらその一部。税金が元の公務員の給与・・・・・。駐車場も県外ナンバーの車が少ない。田圃の土手に停めてある車も例年に比べ随分と少ない。前日(27日)の鹿児島市での同カードの試合と、多分に景気低迷の影響が大きいのであろうが、宮崎県民だけででもサンマリンを「満員御礼」にするくらいの気概みたいなものがあって然るべしだ。直接恩恵を受ける、場外の屋台関係・ホテル・飲食店関係・タクシーなどの交通関係・・・そして公務員はチケット購入や販売にもう少し尽力しても罰は当たるまい。(2月28日)

●今日は休みだ。CATVの234ch。「剣客商売」で秋山小兵衛(藤田まこと)の若女房・「おはる」役の小林綾子がナビゲートする『剣客惣菜』。今日の料理は「煮込み饂飩」。料理人は勿論、「銀座の典座」こと近藤文夫氏。「鬼平犯科帳」と「剣客商売」に出される料理は近藤文夫氏自らが作った。近藤氏は若くして「てんぷら・山の上」の店長となり、今は銀座で「てんぷら・近藤」の店主。今も朝3時には起きて「築地・魚河岸」に出向く、正しく料理人だ。超一流の料理人の職人としての貪欲さが伝わる。番組では料理の歴史も教えてもらえる。味のあるおススメの「料理番組」である。(2月28日)

女子パシュート決勝で日本、0.02秒差でドイツに負け、『。一昨日の真央の『』。これで想い起すのが、必殺仕分人・蓮舫氏のあの言葉、「どうして2位ではいけないのですか」。バンクーバー五輪の日本の「金」はゼロ。『』のキム・ヨナはプロ転向か。19歳で既に数億円を稼いでいるとも。キム・ヨナがもし「金」を取れなかったら、再挑戦しているであろう。「浅田・雨の涙」は4年後の「キム・ヨナ抜きの金メダル(本当は2番手)」が頭をよぎったかもしれぬ。必殺仕分人は真央の涙の意味するところをどう感じたのだろうか真央にとっての『金と銀』は『天と地』の差なのだ。(純・文科系出身の政治家はどうもねぇ~)(2月28日)

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