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今週の親仁ギャグ・2110年3月7日(日)~3月13日(土)

●今日から3日間は本院が夜間の当番である。9時半までの受付だったが、例によって9時過ぎに電話が鳴る。9時半に来院、診断はネコパルボウイルス感染症だ。ウイルス感染症は余程の特徴的な症状がない限り、確定診断が困難である。幸い、パルボに関しては、インフルエンザのように簡易診断キットがあり、採材(糞便や吐物)から10分もあれば結果が出る。パルボは別名が「汎白血球減少症」とも言われ、血中白血球数の顕著な減少を特徴としている。今日の症例は600(正常は10,000前後)であった。一般に2,000~3,000を切ると、予後不良で死の転帰を取る可能性が高くなる。パルボはワクチン接種で防げる病気である動物は苦しみ、病院で治療を受ける思いをしたら、ワクチン代は比にならないこのネコパルボウイルスは、ウイルスには珍しく、犬にも伝染するから要注意である感染動物の糞便や吐物を経口的に摂取すれば、比較的容易に感染する。外に出るネコや散歩させる犬にとって他人事でない。(3月7日)

●50歳ともなれば、焼酎でアルコールの血中濃度を上げない限り、寝つきが悪い。もう一つの方法は読書である。小生の枕元にはジャンルの違う雑誌や文庫本が常に数冊~10冊ほど乱雑に放置してある。文庫本は一丁前にブックカバーがあるから、手当たりで本を取って見開かないと本名が分からない。昨夜は松本清張の「私説・日本合戦譚」(文春文庫)にある「西南戦争」を読んだ。清張によれば、西郷隆盛は最後の「武人」であり、木戸孝允、大久保利通、井上馨、岩倉具視(公家)、山縣有朋、伊藤博文らの明治新政府・官僚との意見の対立にあったという。倒幕によって旧制度を破壊したものの、新政府では新制度を建設できる人物ではなく、妥協性や政治性がなかったとしている。明治維新の立役者の多くは新政府の官僚制度に順応したが、武人・西郷は最期までそうでなかった。征韓論に敗れて鹿児島に帰郷したのではなく、中央(廟堂)での西郷の能力の限界であった。(3月8日)

●上に続く。西郷隆盛は維新後の全国の士族2百万人の食扶持(くいぶち)に腐心した。この点から、新政府の徴兵制度と対立した。そして、薩摩の藩軍を家族共々、東京に移住させ新政府の軍隊にしようと考えていたようだ。(3月9日)

●小生が幼少の頃、西南の役(西南戦争)で「西郷隆盛がどこそこの家に泊まったげなぁ」という話を幾度となく聞かされた。神門の同じ地域(小字)の○○家と鬼神野の○○家であった。西郷軍は熊本城・田原坂の戦の後、木山・御船・浜町・馬見原・江代・人吉・大畑・飯野・小林・高岡・宮崎・佐土原・高鍋・美々津・細島・延岡・三田井・神門鬼神野・須木・小林・・・・・の順路を経て鹿児島の城山を終着とした。上述の「西南戦争」・P420-421によれば、1877年8月17日の深夜から翌未明(翌朝)にかけ長井村・可愛嶽(=可愛岳=えのたけ)の囲みを突破して三田井に出、三田井から神門、銀鏡、米良、小林、栗野、加治木などの線で所在の官軍と小戦闘をまじえながら、9月1日鹿児島に入った、とある。やはり、史実だったのだ。小生の祖父は明治45年の生であるから、明治10年の西南の役については知る由もなかろうが、もしや、伝聞があったかも知れない、と思うと心残りである。(3月9日)

●「西郷隆盛の最期」。城山における官軍の総攻撃は9月24日に開始されたが、前日の23日薩軍の河野主一郎と山野田一輔は、(名目は)「西郷の命だけは・・・」とのことから、官軍側に投降?した。山野田だけが「山県有朋が草した一書」を携え城山に帰した。その内容は、薩軍の事実上の投降と西郷の自刃の勧告であった。その期限が24日午前4時であった。砲撃が始まると、西郷の左右に従っていたひとりの逸見十郎太は「もう、ゆはごはんすめえか?」と問うた。西郷は「まだまだ。ほんどうにでてじんじょうにたおれんとほんとでなか」。・・・・・島津広吉の屋敷の門前に来た時、流れ弾丸が西郷の股と腹とを貫通した。西郷は別府をかえりみて、「晋どん、晋どん。もう、ここでよか」と云い、地に坐った。別府晋助は西郷に向かい、「ごめんなったもんし」と、刀を持って西郷の首に打ち下ろした。隆盛、五十一歳であった。官軍(大日本帝国陸軍)の創設者は第1代陸軍大将の西郷隆盛であり、山県有朋は第3代陸軍大将である清張により、命乞い(?)をしたとされる河野主一郎は10年の刑で服役中、明治14年に特赦された。(3月10日)

●昨日3月10日は「風花」の日? 「風花」(かざはな、かざばな)は①初冬の風が立って雪または雨のちらちらと降ること、②晴天にちらつく雪。風上の降雪地から風に送られてまばらに飛来する雪、③「かざほろし」の異称、①・②とも季語は冬(広辞苑)。3月は春だから、雪が降っても「風花」とは言わないだろう。ある放送局の気象予報士が「今日は風花でした」と言っていたが、勘違いであろう。「小春日和」は小春(陰暦の10月で今の11月)の暖かいひより」のことであるように、言葉とはそういうものだ。いずれにしても、異常気象の範疇には入るまい。写真有り。(3月11日)

●昨日は水曜日で休みであったが、ラジオ収録日。僅か5分だが、体力と気を使う。こういう寒い日の夜は、やはり「ニシタチ」しかない。愚妻を伴い、西銀座の「ふく膳」へ。入口には「ヤマザクラ」が生けられ、いかにも春の様相である。中に入ると、カウンターには水槽で元気に泳ぐ「稚鮎」、「天然のタラの芽」、「空豆」、「延岡の新タマネギ・茹で分蔥(わけぎ)」など、「春乱漫」であった。詳細は写真のコメント。(3月11日)

テンに襲われたトキの羽数は、やはり10(テン)だった。昔、田舎の庭先にある鶏小屋の鶏がイタチによく襲われ死んだ。勿論、食用であったから、イタチを心から憎んだ。「イタチの野郎、二羽獲りあがって」のギャグは寒い。そもそも、①なぜトキを特別扱いするのか、雀が可愛そうではないか、②1羽放鳥するのにいったいいくらの税金が飛ぶのか、③イタチやテンの類を嘗めたらあかんで・・・、昔、鶏をイタチに獲られたり、メジロをモズに獲られた経験のない者どもが、「トキセンター」の職員をしているのか、・・・・・自然と野生を嘗めたらあかんでぇー。冗談じゃない、これが責任問題にならないで何がある。小生は、怒り心頭に発しているぞ。(3月11日)

●あるニュースで、どこかの動物園のテンがいる檻の金網に「猛テンに注意!」の礼(プレート)。佐渡の「トキセンター」には、「盲点(モウテン)を突かれて、時(トキ)すでに遅し」の礼を掲げよう。(3月11日)

●昨日の3月10日は1945年(昭和20年)の東京大空襲の日。広辞苑では「太平洋戦争下、1945年3月10日アメリカ軍B29爆撃機344機による東京への夜間焼夷弾爆撃。死者約10万人、消失戸数約27万、下町地域を中心に全都の約40%、40平方キロメートルが焦土と化した。」とある。沖縄地上戦で約10万人(軍人を入れるとその倍以上)、広島への原爆投下で約20万人、長崎の原爆で約14万人(いずれも被曝後5年以内)・・・など、太平洋戦争での日本の民間人死者は合せて約100万人日本帝国軍人の死者230万人をたすと、実に約330万人が戦争の犠牲となった。第二次世界大戦の死者は中国人が約1000万人であり、全世界では約5000~6000万人が死亡したというから、おぞま(悍)しい数字だ。この数字を知って、記憶しておかなくてはならない。黙祷。(3月11日)

クジライルカ。クジラは捕鯨船から放たれる銃式の銛で突かれて命尽く。イルカも突き槍的な技法で捕獲する。クジラとイルカの共通点は、人間と同じ哺乳類。であるから、雌の子宮から親と同じ形の子が生まれ、そして雌親の乳を吸う。イルカの脳ミソは人間に匹敵するとも。問題は絶命までの時間にあるどう考えても残酷で、かわいそうだ。非国民呼ばわりされそうだが、もっと増しな仕留め方はないものか。外国人にとって、クロ(本)マグロも同じ思考回路の線上にあるのではないか。(3月11日)

●やはり気になる日本最後の内戦・西南戦争。1873年(明治6年)11月10日、鹿児島へ帰郷。1874年、鹿児島私学校を設立。1977年(明治10年)2月19日、鹿児島暴徒征討令が下る。同2月22日、薩軍熊本城を包囲。同3月4日~20日、田原坂の戦い。同4月15日、薩軍熊本城より撤退。同8月17日、可愛嶽を突破。同8月21日、高千穂・三田井に突入。同8月24日、七山→松ヶ平→神門→鬼神野→渡川。同8月26日、銀鏡谷→米良(村所)・・・と軍行は続く。(3月12日)

●西郷隆盛は高千穂・三田井から飯干峠(五ヶ瀬町と諸塚村の境)を越え、諸塚村の七山、そして椎葉村・西郷村・南郷村の境にある小麦越(こむぎのこし、小麦峠とも=清水岳=しみずだけ)を越えて神門へ、ということになる。ちなみに、清水岳と神門の途中の川沿い(小丸川の支流で源流は清水岳)に、小生の実家(清水岳まで車で登って20分)がある。今朝電話でおふくろに尋ねたところ、数年前、当時の恰好をした一行が家の前を通過したというから、「オタク」のことであろうか。(3月12日)

●庭に土筆が頭(筆の先)を出して早1週間。春花到来春味到来旬味到来だ。今日はテレビの事前打ち合わせと手術が3件、少々ばて気味だ。タイミングよく、スタッフの家族が来宮中なので、「宮崎自慢」を兼ねて、「ニシタチ」へ。アルコール燃料を蓄えないと、明日の手術も乗りきれまい。「今日の逸品の一品」は、「磯料理・一八」の「白魚の踊り食い」。今の季節しか喰えない「春(しゅん)の旬な逸品」。透き通るような指の「別嬪(べっぴん)」と呑んでみたいものだ。写真有り。(3月12日)

●近所(本郷北方)の「リンガーハット」の入口横の軒下に燕(ツバメ)が営巣している。もう長い。今夜、高校生の従業員(バイト)に尋ねると、「もう雛に孵っていますよ」とのこと(夜のため雛は未確認)。田舎の田植は6月初旬。毎年、燕が家の中の梁や軒下に営巣して、盆頃に巣だっていた(あくまでも記憶)。時に、青大将(蛇の方言で「むらあたり」と言っていた。村中を渡るから?)が巣を襲撃して、ある日突然、静かになった。まさか、街中でそういうことはあるまい。いや、侮るなかれ、数年前まで小生宅の庭でも青大将が徘徊していたからな。メジロも燕も自然がいい。写真有り。(3月13日)

●「山頭火」の宮崎市行乞については以前に触れた。昭和5年の9月25日から29日の事だが、その折に受けた印象を書き留めた日記(行乞記)を紹介しよう。「宮崎県の文化はたしかに後れてゐる、そして道を訊ねても教へ方の下手、或は不深切さが早敢ない旅人を寂しがらせる、だだ町名標だけは間違ひなく深切だったが。(9月25日)」。「そしてぶらぶらと歩いて宮崎神宮へ参拝した、樹木が若くて社殿は大きくないけれど、簡素な日本趣味がありがたかった。この町の名物、大盛うどんを食べる。普通の蕎麦茶碗に一杯盛ってたった五銭、お代わりをするのはよっぽど胃の腑だ、味は悪くもなければ良くもない、とにかく安い、質と量とそして値段と共に断然他を圧してゐる、いつも大入だ。(9月27日)」。「誰もが詣る生目様へ私も詣った、小つぽけな県社に過ぎないけれど、伝説の魅力が各地から多くの眼病患者を惹きつけてゐる、私には境内にある大楠大銀杏がうれしかった、つくつくぼうしが忙しくないてゐたのが耳に残ってゐる、帰途は道を教へられて高松橋(渡し銭三銭)を渡り、景清公御廟所といふのへ参詣する、人丸姫の墓もある(景清な墓石は今では堂内におさめてある、何しろ目薬とすべく、その墓石を削り取る人が多くて困ったので)。・・・・・大淀の丘に登って宮崎平原を見おろす、ずゐぶんと広い、日向の丘から丘へ、水音を踏みながら歩いてゆく気分は何ともいへないものがあった、もつともそれは五六年前の記憶だが。昨日、篤信らしい老人の家に呼び入れて、彼岸団子をいただいたこと、小豆ぬり、黄粉ぬり、たいへんおいしかったことを書き漏らしてゐた、かういふ場合には一句なければならないところだ。(9月28日)」。「此宿は座敷も賄いも、夜具も待遇もよいけれど、子供がうるさく便所の汚いのが疵だ、そしていかにも料理がまづい、あれだけの材料にもう少しの調理法を加へたならばどんなに客が満足することだろう。・・・・・此地方では酔うて管を巻くことを山芋を掘るといふ、これも面白い言葉である。言葉といへば此辺の言葉はアクセントが何だか妙で、私には解らないことが多い、言葉の解らない寂しさ、それも旅人のやるせなさの一つである。(9月29日)」。(3月13日)

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