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今週の親仁ギャグ・2010年8月22日(日)~8月28日(土)

●宮崎と沖縄の代表校が戦い、勝者が甲子園の切符を手にした1960年~1974年の15年間。その頃は宮崎の方が優勢であった。そして今、大きな溝を開けられてしまった。興南のエース・島袋は春の大会が終わってから、夏の甲子園優勝を想定して練習した。甲子園での連投の為、合羽を着て投げ込んだという。宮崎代表が優勝できない理由には、県民性や指導者、設備、遠征費などのさまざまな問題があろう。単に「よく頑張った」と片付けないで、冷徹な目で分析することを、大真面目に真剣に議論する必要があろう。甲子園は終わり。8月28日。

昨日の口蹄疫終息宣言のJNNニュースバード(ケーブルテレビch254)で昼に流れた内容が夕方には差し替えられていた。取材に応えた2人目の農家(川南町?)の男性がしゃべった最初の内容は「口蹄疫ウイルスがどこから持ち込まれたのか、感染ルートが解明されるまで終息宣言はない」。夕刻に見たときには、人間は同じだが、内容が当りさわりにないものに摩り替えられていた。制作はMRT(宮崎放送)でアナウンサーも同局。JNNニュースはTBS(TBSHD)の番組で、毎日新聞社(09年3月売上2793億円)が大株主(111万株所有)。余談だが、TBSHD(10年3月売上3512億円)は三井物産(09年度売上9兆3583億円、子会社・関連会社461社)が出資し、リクルートと資本提携している。放送内容の摩り替えは椿事だが、察するに、TBSか毎日新聞からの指示であろう。制作したMRT側も、その程度の認識で口蹄疫を取材・放送してきたのかと思うと、首を傾げたくなる。8月28日。

どこかのお笑い知事が「来春の東京都・都知事選へ立候補」の報道。「マンゴー・地鶏知事」で名声を欲しいままにした絶世の「天性エンターテナー」が、90%以上という多くの宮崎県民の慰留に負い目を感じるものの、自ら宣言した「口蹄疫終息」を行政手腕の証と信じ、「華の東京」へ惜しまれながら、羽ばたき旅立つ。自身の健康も顧みず、週末の休暇返上も厭(いと)わないで、県民との対話集会を積極的に催し、無理だ」と一笑に付された4年前の「1票の重さ」を片時も忘れないその姿勢は、絶賛に値しよう。県の財政状況も、「口蹄疫惨禍」の激甚災害があったにもかかわらず、トップダウン的な歳出削減努力により、大きく改善され、他県に比べ経済情勢も好転した。・・・・・????? これは、笑ってもらいたくて本気で書いた「褒め殺しだな。小生もヒマだなまー、東京人は、宮崎県人ほど「お人好し」でないことだけは、覚悟した方がいいなだな。この話題はもうウンザリだな。8月27日。

6月8日の菅直人首相は就任会見で、「閉塞状態にある日本を元気にするため、強い経済、強い財政、強い社会保障を一体的に進めることを、新内閣の基本方針とする」の気勢。このフレーズも1週間の命で、今は完全な死語。昨日は「1秒たりとも・・・国家・国民の為、・・・費やす???」。就任後3カ月はそうでなかったということか。言葉が軽い政治家だ。片や一郎君、その筋では「口が堅く、約束事は守る」と定評。日本を本気で変えられる政治家はWhich? 8月27日。

それにしてもどうにかならんかねえ~、巨人の「東邦」を想わせるユニホーム貧打の試合は、弱小の高校野球チームに見える。(断っておくが、東邦は「バンビ」こと坂本佳一氏がいた強いチーム)。8月26日。

義理・人情・仁義がなければ一国の指導者にはなれないか。「義理」は「④特に江戸時代以後、人が他に対し、交際上のいろいろな関係から、いやでも務めなければならない行為やものごと。体面。面目。情誼。」(広辞苑)、「人情」は「①自然に備わる人間の愛情。いつくしみ。なさけ。」(同)、「仁義」は「①いつくしみの心と道理にかなった方法。②人の踏み行うべき道。世間の義理・人情。」の意。現われたもう一つのキーワードは「大義」。その意は「②人のふみ行うべき重大な道義。特に、主君や国に対してなすべき道。」(同)。義理人情で代表が決まるか、正義を貫いて続投か。「君主に仁義あり」と言うが、「大義親を滅す」ならぬ「大義国を滅す」でないことを祈ろう。いずれにしても、政策論争を正議することが、正義であり、大義(①重要な意義。大切な意味。同)なことだ。8月26日。

このところの総理大臣はなぜ国民に国家戦略を発信しないのか。「イラ菅」もそうだが、総理大臣の座に坐ること自体が人生の最終目的であったかのようだ。就任後、日本国家・国民のために不眠不休で決死の舵取りを敢行するという本来の任務は「歌を忘れたカナリア」状態。喉元に痞(つか)えているものを、イラ立って吐き出してみることだ。そうすれば、活路が拓けるかもよ。一郎君の昨日の発言。「日本は財界も官界も、政界も、全てが急速に劣化している」は名言か、はたまた迷言か。つづく。8月26日。

不謹慎だが、政局が俄然面白味を増してきた菅直人と小沢一郎の一騎打が決まった。鳩君と一郎君の縒りが戻り、戦闘態勢に突入。一郎君が負ければ、政界の大編成が起こり、衆議院解散・総選挙か菅政権になっても何の発信もメッセージも無い経済政策も、国防(沖縄基地問題)も、円高も、株安も、脱官僚も、天下りも、教育も、少子化政策も、年金も、議員削減も、歳費削減も、雇用も、地方分権も・・・・・何ら改革・改善されていない。前線の国民は戦の厳しさを訴えるも、総司令部からの命令も指令も何も来ない。総理の椅子が近づいたころから、途端に黙り戦法で武装化し、いざ総理になったと思いきや、「イラ菅」を封印。一気に「イ菅」へ転落。「棚からぼた餅式総理」を切望する側近閣僚も政権奪取前の覇気が沈没。つづく。8月26日。

「里の秋」の歌詞1.静かな静かな 里の秋 お背戸に木の実の 落ちる夜は ああ 母さんとただ二人 栗の実 煮てます いろりばた 2.明るい明るい 星の空 鳴き鳴き夜鴨の 渡る夜は ああ 父さんのあの笑顔 栗の実 食べては 思い出す 3.さよならさよなら 椰子の島 お舟にゆられて 帰られる ああ 父さんよ御無事でと 今夜も 母さんと 祈ります  8月26日。

栗を目にすると思い出すのが小中学生の頃と「里の秋。その昔、南九州は「台風の銀座」と称され、よく台風に見舞われた。当時台風が来ると外にも出れず、2、3日は皆家に閉じこもった。自家用車もない時代だから、買い物何ぞとんでもない。貧乏なので買い置き何ぞも、もちろんない。何せ、腹が減って仕様がない。そんな時、背戸のまだ青い毬(いが)の栗を兄弟で竹竿を使って獲り、茹でて喰らった。親父は出稼ぎで留守がほとんど。「里の秋」は童謡の中でも異色で、出征した「おとうさん」の無事を気遣う軍歌だ。1945年(昭和20年)12月24日にラジオで川田正子の新曲として流された。写真有つづく。8月26日。

1回戦勝っただけで「知事を表敬訪問」は如何なものか。口蹄疫で対外試合が全く出来なかった県内の高校野球。県外遠征も御法度であったから、一流投手の変化球にバットがついていけないのも分からないでもない。2回の延長戦を戦ったのも、見方によっては栄誉なことかもしれぬ。しかし、どんな理由があれ、甲子園で1勝したからといって、誇らしげに県庁を訪問しているとしたら、何とも情けないマスコミ側も彼らを煽て挙げずに、敗因を厳粛に分析し、容赦なく書き綴ることが必要だつづく。8月25日。

宮崎と沖縄の高校野球の違い沖縄の高校生は身体能力がもともと高いのか。昭和35年(1960年)の42回大会から昭和49年の56回大会までの15年間、南九州大会は沖縄と本県の2県で決戦し、勝った方が甲子園の切符を得ていた。その15年間のうち3回は記念大会で各県1校の出場、残る12回で宮崎県代表が沖縄県代表に勝ったのは実に9回であり、沖縄はわずか3回に過ぎない。それがどうしたことだ、沖縄は春2回、夏1回の全国制覇今年は史上6校目の春・夏連覇ときた九州で春夏通して優勝旗を持ち帰っていないのは本県だけだつづく。8月25日。

口蹄疫は玉虫色の結論の公算大。今日の夕刻のニュース。口蹄疫第三者委員会と農林水産省の口蹄疫調査チーム(動物衛生研究所・県家畜保健衛生所・大学関係者)が会合。初っ端は「口蹄疫ウイルスは外国から入ってきた」とのふざけた見解外国から入ってこなかったら、誰かがウイルスをばら撒いたのかよ。それに、第三者委の座長は日本獣医師会長第三者委員会と獣医師会、国や県の行政とが仲良し小好しこんなんで客観的な検証など望める訳も無いこれまた民主党政権に代って何も変わっていない。残念だつづく。8月24日。

宮崎県代表が甲子園の土を踏んだのは、昭和29年の第36回大会。東九州大会(鹿児島・大分・宮崎・沖縄)の代表決定戦の決勝で高鍋が大分商を4-0で降した結果であった。この36回大会の高鍋の出場で46の都道府県がでそろった。当時沖縄はアメリカ統治下であり、宮崎県が最後まで出場できなかったという「不名誉」であった。高鍋は鶴見工に5-16で1回戦敗退。つづく。8月24日。

宮崎県代表は今世紀中に全国制覇できるか。夏の甲子園大会の第1回は大正4年のことだ。第3回大会の九州大会で宮崎中が福岡商に3-5で負けて、甲子園には行けず。その後も11回~15回大会の南九州大会(熊本・鹿児島・宮崎・沖縄)、16回~27回大会の南九州大会(熊本・鹿児島・大分・宮崎・沖縄)、そして昭和17~20回大会の太平洋戦争による中断、28・29回大会の南九州大会(熊本・鹿児島・大分・宮崎)、30~33回大会の東九州大会(鹿児島・大分・宮崎)、34~39回の東九州大会(鹿児島・大分・宮崎・沖縄)、40回の記念大会は各県1校でで大淀高校が甲子園へ、41回は高鍋が南九州(鹿児島・宮崎・沖縄)代表で甲子園へ、42~56回大会は南九州大会(宮崎・沖縄)(うち45、50、55回の記念大会は各県1校)、そして昭和50年の第57回大会からようやく現在のような各県1校代表制(北海道・東京は2校)に移行した。地区がコロコロ変わった理由を知りたいものだ。何とも複雑だ。覚えて宙で言うのは辛い。つづく。8月24日。

●知り合いの娘さんがこの夏休みに3週間、アメリカのボストンへ語学研修に行って、このほど帰国した。彼女によれば、ある水曜日の夕刻、ボストン美術館に出向くと、日本人の観光客がチケット売り場でたじろいで居り、助け舟を出してあげた。ボストン美術館は水曜日の午後4時から入館が無料で、チケット売場のスタッフは「今日は無料だが、恵まれない子供に寄付をするか、しないか」を尋ねていたらしい。日本人はこれまた「どぉーねぇしょ」(=donation)か、迷ったに違いあるまい。日本にはない文化ドーネーション文化も是非取り入れてもらいたいが、税制面での優遇も必要だ。8月23日。

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