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今週の親仁ギャグ・2011年6月5日(日)~6月11日(土)

●日本の個人金融資産は減り続けているが、今はいくらなのだろう。つい数年前までは1500兆円だったが、現在は国の借金とほぼ同額の900兆円とも言われている。預貯金の内訳は、現金・預貯金55.3%、株式6.6%、株式以外の有価証券6.6%、保険27%、その他4.4%(2009年、岩崎浩之ら)。他の先進国に比べて現金・預貯金の割合が著しく高いつづく。6月11日。

遅遅として進まぬ被災地域の瓦礫処理、棲家の確保、仕事再開の目途、港湾整備、地域や町の復興計画(グラウンドビジョン)大和魂までも津波にのまれたか。この国は日本か日本の大企業(資本金10億円以上の企業)の2009年度の内部留保金は2008年度より約11兆円増えて243.9兆円。対外(海外)資産が6兆268億・米ドルで、対外負債の3兆1349億・米ドルを差っ引くと、残り(対外純資産)がなんと2兆8918億・米ドル。円にして230兆円を超える。政府よ、日本の大企業よ、この金を今使わずしていつ使おう。国難、国難・・・と連呼している○○○の社長よ、口ばかりじゃ、もう車は買わないぜよ写真有マグニチュード9、40mの大津波(最大遡上高)の3.11から丸3ヶ月の6月11日

●「草奔崛起」(そうもうくっき)。民はいつまでも媚び諂って、沈黙を通すと思うなかれつづく。6月10日。

維新後も政府内で活躍した塾生もいたが、志半の20代で死んでいった「松陰志士。そこへきて現代の政治家は何たる無様であろう。「国家国民のため」、「生活がいちばん」なんぞ大嘘っぱちの糞喰らえだ。ポスト菅で名が挙がっている数人も一部を除いて「だんまり作戦」。「後だしジャンケン」でないと、「怨念政治」の深淵に引きずり込まれて、奈落の底へ落し込まれるからであろう。この場に及んでは、総理大臣になりたい輩は与野党問わず手を挙げてもらって、「5分間スピーチ」でもって「首班指名」してもらおうではないか。戦後生まれの「お坊ちゃま」政治家どもよ、「国家国民のために腹が切れるか」を自問自答してもらおうではないか。つづく。6月10日。

松下村塾塾生
久坂玄瑞(1840-1864):双壁の一人。17歳で入塾。1864年7月、蛤御門(禁門)の変で自刃。
高杉晋作(1839-1867):双壁の一人。19歳で入塾。騎兵隊創設者。結核で病死。
吉田栄太郎(稔麿、1841-1864):四天王の一人。16歳で入塾。1864年の池田屋事件で没(他説あり)。
入江杉蔵(九一、1837-1864):22歳で入塾。松陰が最も信頼。禁門の変で敵の銃撃を受けて負傷し、その場で切腹。
久保清太郎(1832-1878):松陰のいとこ。松下村塾では助教授的存在。
伊藤利助(博文、1841-1909):17歳で入塾。維新後は、初代内閣総理大臣。ハルビンで朝鮮の独立運動家に暗殺される。
野村和作(靖、1842-1909):17歳で入塾。兄は入江九一。神奈川県令、内務大臣、逓信大臣を歴任。
佐世八十郎(前原一誠、1834-1876):24歳で入塾。下関戦争で活躍。維新後、1876年萩の乱で処刑。
品川弥二郎(1843-1900):15歳で入塾。第1次松方内閣で第6代内務大臣。
山県小助(有朋、1838-1922):21歳で入塾。騎兵隊に参加。近代陸軍を確立。
正木退蔵(1846-1896):13歳で入塾。松陰の人生を海外に紹介。
桂小五郎(木戸孝允、1833-1877):明倫館での門下生。松下村塾の指導的立場。つづく。6月10日。

●「維新の志士」を語るのは愉快だ。楽し過ぎて焼酎が進む。地球の真裏の国では、酒席での政治の話は大歓迎で、この話題無くして何を話すのからしいが、日本ではタブー視される。差し障りのないのが、故人と歴史の話だ。「親仁ギャグ」も歴史には饒舌になりがち。下の写真3枚(銀座百点・トラヤ帽子店・ボーラーハット)も維新の志士に嵩じて説明文が書けなくなった(字数が100文字で制限)。そこで、ここで講釈を垂れて見よう。
※「銀座百点」は「銀座百店会」が発行する月刊誌。6月号が679号目で、第1号は1955年4月25日。銀座の百店がそれぞれ百点を目標にしての発会であろうか。以前に数えた時よりも増えていて、今月の6月号では139店が会員のようだ。トラヤ帽子店、ぜん屋、銀座ワシントン、ミキモト、田崎真珠、日動画廊、相模屋美術店、鳩居堂、ギャラリー一枚の繪、泰明画廊、ギャルリーためなが、銀座・伊東屋、和光、銀座若菜、銀座アスター、ライオン七丁目店、資生堂パーラー銀座本店、ハゲ天、銀座天一、久兵衛、天國、銀座木村家、銀座千疋屋、文明堂、とらや銀座店・・・・・・・・などなど。
「銀座百点」は銀座界隈の何気無い風景や筆者の銀座回想などで、宣伝じみてないのがよろしい。2枚目の写真は6月号23ページの「トラヤ帽子店」の挿しコミで、本文はマンボミュージシャン・パラダイス山元氏の「銀座里山探訪記-風と緑の天空散歩-」(10~23ページ)。
※写真3枚目はあのアンパンマンの漫画家・やなせたかし氏の寄稿文。小生と同じくトラヤ贔屓とのこと。嬉しいではないか。6月8日。

●「第60回、全日本大学野球選手権-神宮球場-」をCATVの210ch・JスポESPNで生中継中だ。2日目、2回戦の第1試合は愛知学院大vs東北福祉大。東北福祉大は逆転された9回表、一昨年夏の甲子園大会に準優勝した日本文理大の伊藤直輝投手(2年生)が3番手で登場した。逆転された直後の所為もあろうが、厳しい顔付で後続を打ちとった。男の顔に成長していた。そして、第3試合目は東京情報大学vs東京国際大学。と、東京国際大学の監督は元・広島カープ監督の名将・古葉竹識氏ではないか。画面で見ても健康そうで、よりだ。その他、甲子園で活躍した懐かしい名前も聞けてとも嬉しい。今日の小生は休み。もすることのない、とてない休みだ。6月8日。

西郷の弁。「俺と大久保の差は、たとえば俺は、古い大きな家を壊し、新しい家をつくるのが得意だ。しかし、つくるのは本体だけで、内部の細々としたことは苦手だ。そこへ行くと、大久保は内部のどんな細々としたことでも、着実に、丹念につくり出す。その才能には、到底俺はかなわない。しかし、またこの家を壊すことになると、俺の独壇場だ」。(童門冬二著・「西郷隆盛の人生訓」pp202-203、PHP出版)。政治家たる者、正確な自己分析も資質の一つだな。6月7日。

●「松下村塾」の名の由来は、萩城の東のはずれにあった「松下邑」(まつもとむら)から。吉田松陰(1830-1859)は杉家の二男「虎之助」として、松下邑に誕生。父は杉百合之助(1804-1865)、母は滝(1807-1890)。百合之助は萩藩士26石の下級武士で、杉家5代目だが、無給通という低い身分であったため、農業中心の生活をしていた。6畳が2間、3畳が3間に台所と納屋だけの小家に、杉家、吉田家、玉木家が一緒に暮らしていた。松陰は5歳で叔父である吉田大助の養子になり、6歳で叔父が他界すると、山鹿流兵学師範の第8代吉田家当主となるが、30歳で刑死するまで家族を持たず、両親と同居していたつづく。6月7日。

●「寺子屋」の話。たばる動物病院「寺子屋」を始めるに当たり、これは真剣な話だが、「松下村塾」と同じ間取りの建物を考えていた。しかし、適当な平地が無かったので現在の形にとどまっている。そもそも松陰神社境内の一角に建つ「松下村塾」は松陰の叔父の「玉木文之進」が開塾し、2代目は義母方の叔父の「久保五郎左衛門」、そして3代目が「吉田松陰」である。3畳2間、4畳半、8畳の4室を持つ木造瓦葺き平屋建ての小さな建物である。つづく。6月7日。

文藝春秋6月号。巻頭のエッセイは各界のそうそうたる面々が筆を振う。立花隆氏の「ひこばえ」、草笛光子氏の『「セイゲンさん」の思い出』、渡邉恒雄氏の「氏家斉一郎君と私の人生」、伊集院静氏の「色川武大の追憶」・・・、どれも「故人」や「」の話題。新聞は「」、「」の文字が目障りな位やたら目立つ。関東大震災や第二次世界大戦の災禍後、明るく希望に満ち溢れていた輩がいた。そして彼らがまさしく日本を「新生」させた野望を抱く若者よ、今だ。6月6日。

●「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」。夏までに「大連立」が成り、来夏には総選挙が民衆のシナリオか。来年の夏までに「日本丸」の舵を取れる第3局・新党の真の兵が出現するかがキーだ。来夏、偽兵の残党がまだ暗躍しているようでは、永田町1丁目1番地の国会議事堂は「芭蕉の句」に他ならない。6月6日。

●内閣不信任案の前後であったろうか、ある民主党の反小沢派・衆議院議員が「四半世紀もの間、政治の表舞台に君臨する小沢氏は凄い」と放言していたが、壊すことも建設することも何もできずにただ保身のために勝ち馬に乗ろうとしている若い輩が多過ぎる。政治理念もへったくれもない小人がほとんど。壊し屋・剛腕だってそのあと、それなりの政党を造ってきた。壊すのだって、「エネルギー」と「」が必要なことを、若いボンボンは知らないようだ。もしかしたら、哀しいかな、日本を新生(建設)してくれる兵が不在なのが、最も不幸なことかもしれない。6月6日。

維新の三傑」は西郷隆盛(1827-1877)と木戸孝允(桂小五郎、1833-1877)、そして大久保利通(1830-1878)だ。西郷と大久保は薩摩藩の下級武士の倅で、云わば「竹馬の友」だが、西郷ドンは「壊し屋」で、大久保は実務に強い「建設屋」と評される。当世の壊し屋は27歳で衆議院に初当選し、47歳で幹事長に就任、新党を作っては壊し続けている。きょうの日本は壊れに壊れ、今やこれ以上のデストロイヤーは不要である。ところが、大久保利通のように「新生日本」を建設する人物がいないのか、爪を隠しているのか、動かない。マスコミに毎度登場し、鼻息の荒いことをのたまっている若手議員も少なくないが、彼らこそ「第3局」を旗揚げする契機到来だ。多分に興るであろう「大連立」はその下地である※大久保利通の業績は、学制や地租改正、徴兵令などを実施し、「富国強兵」をスローガンとして殖産興業政策を推進。官僚国家の礎を築いた。6月6日。

民主党って、代表選をやるの? ジグザグな紆余曲折で、人間の醜い本性を曝け出した菅総理、岡田幹事長、鳩山前首相、そして「壊し屋」の異名をもつ「剛腕」。与野党からようやく「大連立」が合唱される兆しが見えてきたここに至って、「代表選」でまた新たな醜態を見せられるのは我慢の限界いい加減にしてくれ~若手で話し合いで決めてくれ~。6月6日。

明け方の饂飩屋。きのうは就寝が早く、焼酎の量もほど良かったのか、未明の3時前に目が覚めた。「親仁ギャグ」の「豆腐」を書いていたら、無性に「できたて豆腐」が食いたくなった。そろそろ売り始めた時間だろうにと、5時半に家を出て、谷川町の豆腐店へ。ここへは一度しか行っていないが、老舗なら朝の「ほやほや豆腐」を売っているに違いなかろうと考えたからだ。信号の半分はまだ点滅の状態だから、数分で現場へ到着したが、残念なことに「店休日」。これでは「小腹」がますます空いたというものだ。そこで頭に浮かんだのが、大坪の饂飩屋。6時からの開店とは知っていたが、20分は早い。ところが、駐車場は8割ほど埋まっている。店内に入ると、けっこうな客の入りだ。訊ねはしなかったが、これだと5時半から開けているようだ。まさか、日曜日の明け方、饂飩屋に知り合いは居なかろうと思うのが常だろうが、なんと「源藤の居酒屋」の常連が先客で居るではないか。Hさんだ。「今日は仕事ですか」と聞くに、「いや、休みじゃけんど、休みの日ほど早く起きっとよ」と応えて、先に店を出た。人それぞれだが、皆それぞれに頑張って生きているのだな、と思った。6月5日。

豆腐の余談豆腐の伝来時、納豆と名前が入れ代わったのではないかとの説。大豆を発酵させた納豆にこそ「腐」の字が当てはまり、一方の豆腐は型に「納」めて作るから・・・との考察だが、妙に説得力がある。※納豆には「糸引き納豆」と「塩辛納豆」がある。塩辛納豆は中国から伝来したが、糸引き納豆は日本のオリジナル。6月5日。

豆腐の日本への伝来。確かな記録は存在しないが、奈良時代に遣唐使がもたらした? 平安時代末期に書かれた奈良・春日大社の神主の日記に、供え物として「豆府」の記述があり、これが日本の文献では初出。14世紀になると豆腐は文献に頻繁に登場。当時、肉食が禁じられた僧侶の間で食され、次第に貴族社会に浸透し、江戸時代中期には広く庶民食へと拡大した。当初の豆腐の主産地は奈良で、奈良から都(京都)へ豆腐を売りに行っていたことを示す文献が残っている。その後、次第に豆腐の主産地は京都へと移ったが、これには京都の豆腐作りに適した豊富な地下水があることが大きく影響している。祇園豆腐や南禅寺豆腐が有名であった。つづく。6月5日。

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