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今週の親仁ギャグ・2011年12月25日(日)~12月31日(土)。

1542(天文11)年に生まれ、大阪夏の陣で豊臣家を完全滅亡させた翌年の1616(元和2年)年に没した徳川家康公は、若い時分自らも人質に囚(とら)われ、また正室と嫡男を危(あや)め、身内を人質に差し出し、一体幾度の戦(いくさ)を交え、数え切れないであろう生死の淵を彷徨いながらも、それでも権現様は戦国時代に終止符を打ち、天下を取って、260余年の安泰政権を樹立した。この国難、坂本竜馬がいたら、高杉晋作がいたら・・・いや、いや、ここにきてやはり徳川家康公がいなくてはなるまい。間も無く除夜の鐘が鳴りだす。家康公の話は2012年に持ち越しだ。12月31日。

●「家康の仕事術」(田安徳川家第十一代当主・徳川宗英 著)。「徳川家に伝わる徳川4百年の内緒話」という。今回の震災とフクイチの国難。明治維新と第二次世界大戦(太平洋戦争)以来3度目の国難。その前にも今回と同クラスの大地震がと津波が襲っていたように、明治維新より前にも何度も国難はあったのではなかろうか。1274(文永11)年と1281(弘安4)年の元寇(蒙古襲来)、戦国時代、「坂の上の雲」の日露戦争。戦国時代とは「応仁の乱(1467~1477=応仁元年~文明9年)以後、織田信長が天下統一に乗りだすまでの時代」(広辞苑)で、最終的に戦国を制したのは織田信長でも豊臣秀吉でもなく、言うに及ばずとも権現様こと徳川家康公である。国難とは国が潰れるか、外国の植民地と化されるくらいの大問題を言うのである。※田安徳川家は江戸幕府8代将軍吉宗の次男・宗武を家祖とする。田安の由来は「田安明神」から。つづく。12月31日。

2011年3月11日14時46分18秒。この瞬間から、日本の苦悩が始まった。そして、今日が2011年の最後の日。震災の後遺症と原発の続発症に今から数十年、いや100年、200年、向い合い戦わねばならぬ。それ以前からあった財政悪化、政治不信、社会保障の破綻・・・などなどに甚大な追い打ちをかけた。政治家や財界のトップはどうか知らぬが、少なくとも小生ら庶民は震災後、その「生き方」について方向転換を迫られている。少なくとも現実を直視して、なんとか現状打破を図らなくてはならない。年金の一元化など社会保障の根幹が見直され基盤が出来れば、国民の預貯金も吐き出され、経済の正のスパイラルが動き始めるに違いない。つづく。12月31日。

今年も残すところ3日。テレビも年末バージョンで面白くない。こうやって飽きもせず懲りもせずにクダを巻き、講釈を垂れているのは幸せもんだ。今年は震災に始まり震災に終える。自然の猛威を示され、原発という人工物の脅威を思い知らされた。冬の夜長の休肝日、本を読んでみたり、自転車を漕いでみたり、「JET stepper」を踏んでみたり、来年の借金返済計画を考えてみたり、余生の過ごし方を夢見てみたり、居酒屋放浪の有り方を模索し直したりしてみたり・・・・・そうだ、津波の避難場所の確認が未だ不確実だ。如何に迅速に、確実な場所への避難経路と手段。まだまだ、行政の基礎データが少ないとは言うが、我が身と家族の命を守るのは自分自身だ!!! 国や行政を当てにしていたら、死ぬだけだ。震災後の、一連の国のいい加減な施策で明らかになったことは、これだ。12月28日。

●またもや「銀座百点」の下北沢「小笹寿し」の「頑固が鉢巻」した大将・岡田周三氏の言。「職人は弟子を育ててこそ一人前」。獣医師も職人だ。職人は「頑固」で「理屈っぽく」て「鉢巻が捻じってる」ほどの「思索人」でなくては使えない。獣医師とはそういう職業で、職人技を会得するのはそうは容易でない・・・ってこったな。12月27日。

今年も今日を入れてあと5日。30日までに呑み会があと3回。やはり50を終えると連ちゃんは五臓六腑にこたえる。宿酔も晴れるのに時間がかかる。年齢で肝臓のアルコール代謝(分解)が衰えたのだ。しかし、若い獣医師は順調過ぎるくらいに成長中だ。小生が居ぬ方が成長速度が速い。裏でパチパチやっていても呼びに来る回数がめっきり減った。「せんせ~い、○○さんところの××の胃にガスが貯まってます。レントゲンは撮りましたが・・・」。時計を見ると9時。胃捻転であった。・・・5時半、「せんせ~え、○○××がローストチキンの骨を食べたそうですが・・・」。こんな具合で1日が過ぎる。明日はどんな「せんせ~ぇ」やらだが、呼ぶ声の音質で重症度が分るから、不思議だつづく。12月27日。

北朝鮮の拙速すぎる体制固め(継承)と、その北朝鮮の体制維持づくりに対して中国が全面支援を表明。不安定要素に事欠かないこの時期での泥鰌の中国訪問。マニフェスト全面裏切り内閣」の張本人がその自覚無く、中国に行って媚を売るとは何事ぞ。胡錦濤国家主席や温家宝首相が日本で愛想つかされた泥鰌を厚遇する訳ないだろう。ここは、中国の北朝鮮全面支援に抗議するスタンスで訪中を延期するくらいの度量がなくてどうなろうか。御手柄がパンダの貸与程度では、プロパガンダならぬ、行き詰まり泥鰌のプロパパンダに過ぎない。12月26日。

きのうであったか、おとといであったか記憶に薄いが、夕刻の診療の合間、病院の周りを自転車で徘徊していると、病院裏の田圃で遠目ではあるが確かに小学生と思われる女の子3人が凧揚げをしていた。否、凧揚げをしていたという表現は当らないかもしれない、凧を持った子供3人が固まり何かをしているようであった。今どきにしては珍しい光景だなと思いながらも、自転車をほんの数分走らせて戻ると3人の姿はもう何所にも見当たらない。狐に抓まれた感じで、今となってもあの凧は上手く揚がったのか、揚げられずに中途で諦めたて帰ったのか、気になってしようが無い。風は良い塩梅であった。3人皆が凧をぶら提げていたようにも見えたし、否、手に凧を携えていたのは1人だけだったようにも見えたし、今から揚げようとしているのか、さては揚げ終えて家に帰ろうとしていたのか、その時はどうでもよいことであった。もし彼の子供らが1回も凧を揚げることが出来ずに田圃を去っていたとしたら、なんとも悲しいではないか、そればかりが今も気掛かりだ。正月にさえ、市内で凧揚げをしている子どもはもう何年、否、この20年近く1回も見ていないように思う。若しや、この冬休みは凧揚げが流行るかも、小生も中学以来の凧を揚げてみるとすっか。12月25日。

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