●ANAの機内サービスで振舞われる”緑茶”の不味いこと。選択はアップルジュースとの二者択一。JALは小生好みのスープもあり、選択肢が多い。ところで、宮崎・福岡線にANAが戻ってくる。3月25日から運行を再開して6月30日までに1日3往復に増やし、7月1日からはアイベックスエアラインズ(新規航空会社、リージョナル航空会社)とのコードシェア(共同運航)便を加えて1日5往復とする。機材はボンバルディア(カナダ)のCRJ700(70人乗り)で、ここでもやはり小型化が見られ、その分便数が増え、利便性が向上するということだ。現行のJAL9往復とANAの3往復、そしてIBEXの2往復の全部で14往復となる(JALが減便しなければ)。運賃も片道2万円前後だが、得割りなどで5千円台の提案もありそうだ。1社独占と傲慢は何でも良くないってこったな。往復1万円で福岡グルメ旅が愉しめるなら、結構毛だらけ猫灰だらけで、なおなお結構、コケコッコ―だな。仕事を終え、夕方の便で福岡へ、そして翌朝の1便か2便で帰ってくる、いいじゃないか。1月21日。
●用事があって、上京。行きはJALで、機種は76人乗りのエンブラエル170(E70、ブラジルの飛行機会社が生産)。今流行りの小型ジェット機で巡航速度も時速871kmと速く、300人乗りの旅客機と比べても遜色ないから、飛行時間も1時間と短い。小回りがきくと言えるのか分らないが、高度を抑えている分、時間が短縮できるのであろう。帰りはANAの朝1便で、9時からの診療には間にあった。2010年1月からJAL再建を取り組んでいる稲盛和夫氏。ANAの背面飛行問題も大きく影響しているかも知れないが、ここ最近のJALの巻き返しは相当な勢いである。定刻での出発や機内サービスも破綻前とは大違い。ANAの女性客室乗務員のぞんざいな物言いや紙コップの回収を急ぐかのような所作(空になっているか覗き込む)、最後尾でペチャクチャ談笑するのには閉口したし、逆にJALの男性乗務員の丁寧なアナウンスには共感が持てた。大震災の惨禍でトヨタの年間総生産台数がGMとフォルクス・ワーゲンに次ぐ世界第3位に転落した。GMも2009年6月に破綻したが、JALを凌ぐ巻き返しのスピードだ。遅々として鈍間なのが日本の政治。明日は我が身であり、チャンスも有れば、背面飛行ならぬ一転降下も有り得るということだ。つづく。1月20日。
●天正10年(1582)6月2日未明、織田信長は明智光秀の謀反によって本能寺で自害した(本能寺の変)。信長は本能寺に公家を招き盛大な茶会を催していた。付きの総勢は嫡子・信忠や小姓・森蘭丸ら30人で兵はいなかったとされる。そもそも光秀は、毛利と戦闘中の秀吉から援軍を依頼された信長の命で、毛利攻めに向かわなければならなかった。5月28日、「ときは今あめが下知る五月かな」で謀反を意志表明。6月2日未明、明智の総勢は1万3千で亀山城を出て中国地方へ向かう筈が、「敵は本能寺にあり」の命で桂川を渡り、信長の本能寺と信忠の二条城に向かった。桂川を渡った光秀勢は3千。丸腰同然の信長に比べたら、「多勢に無勢」は一目瞭然。では、光秀は何故にして謀反を起こしたのか。諸説繚乱と言ったところだが、家康を安土城に接待した際、出された料理が豪華絢爛過ぎたため、信長は光秀を大いに叱責した・・・・・、光秀の若いころの恩人・朝倉義景の頭蓋骨の盃で酒を強要した・・・等の怨念説。・・・。つづく。1月17日。
●続・家康。1579(天正7)年、家康は長男・信康を自害(享年21歳、介錯人は服部半蔵正成、刀は名刀・村正)させ、正室・築山御前(今川義元の姪)を殺害した。信康の妻は信長の娘・徳姫だが、事の発端は彼女が父へ送った書状であった。内容は12カ条に渡り、築山殿と信康が武田方と内通して信長と家康を滅ぼす策略を練っていること、築山殿が信康と自分の仲を割こうとしていること、信康が罪も無い領民を惨殺していること、自分にも暴力を振うことなどであった。怒った信長の命でのことだった。人質や婚姻で子女を他家に送らざるを得なかった戦国時代。実の親子が殺し合う時代が戦国だ。ちなみに信長の子供は総勢22人。家康は男子が11人、女子が5人だが、落胤として豊臣秀頼(1593~1615、母は淀殿(茶々)説)や3代将軍・家光(1604~1651、母は春日局説)も取沙汰されるされる程だから、「性豪」でなくちゃ戦国の世は生き抜けられなかったのじゃな。つづく。1月16日。
●江戸時代の刑罰には死刑と追放刑、そして自由刑があった。もちろん、武士は除外されるが・・・(武士の死刑は切腹と斬首)。追放刑では、「遠島(=島流し=終身刑)」は賭博・過失致死・僧侶の女犯に適応され、江戸では伊豆七島(金杉橋から出た者は吉事があると恩赦で戻ってこれた)、大阪では五島列島・壱岐・天草などに流された。人妻との密通は「重追放」で関八州・五畿内などでの住居が禁止とされた。その他、「中追放」、「軽追放」も有った(罪の軽重で江戸からの追放距離が決まった。様々な職業訓練も行われた)。小額の賭博での刑は「江戸払い」と言って、品川・板橋・千住・新宿・本所・深川・四谷大木戸から追放された。「所払い」は犯人をその居住地から追放した。追放刑で最も軽い刑が「門前払い」であり、奉行所の門前から追放した。売春は自由刑で「手鎖」と言われ、鉄製の鎖をかける罪を科せられた。※「公事方御定書」は刑罰を定めた江戸時代の基本法典。※「諸国の入れ墨」は、主に窃盗犯への刑として用いられ、入れ墨の部位や模様で犯罪地が一目でわかった(徳川幕府刑事図譜)。1月15日。
●犯罪社会。どこの刑務所も満杯だそうな。死刑論議も進まない。江戸時代の刑罰はどうであったのだろうか。殺人犯・殺人容疑者の逃亡幇助・強盗・10両以上の窃盗・放火犯・尊属殺人・関所破り・主人殺し・親殺しなどは死刑で6種類あった。具体的には、下手人は斬首、死罪も斬首、獄門刑は斬首後首を鈴ヶ森・小塚原に晒す、磔の刑は十字架にくくり鎗で30回刺して殺す、火罪は火炙り(放火犯・尊属殺人・関所破り)、鋸挽は首から下を地中に埋め外に出ている首を通行人に引かせる(主人や親殺害に科された最も重い刑・2日間晒す)・・・である。今よりはずっと重刑だ。※死罪は平民に対して執行されるもので、闕所(けっしょ=財産没収)という附加刑があった。つづく。1月15日。
●広島刑務所の失態で気になる点。逮捕後の容姿が公開されて写真と違い過ぎ。数年前の写真なのだろう。年に数回は刑務所内で撮影しているのが常識だろうに。そして、中州とはいえ、街の真ん中の立地。宮崎刑務所は、以前は宮崎駅の東隣(浄土江町)に位置していたが1976(昭和51)年、田舎である現在の糸原に移転した。街中の刑務所は考えものだな。つづく。1月15日。