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今週の親仁ギャグ・2013年2月24日(日)~3月2日(土)

●山岡荘八著「高杉晋作」の「高杉晋作年譜」によれば、1862年(文久2年)「<24歳>1月・上海行きを命じられ千歳丸で江戸から出帆、長崎寄港。4月・長崎を出帆し上海へ。『清遊五録』を書く。5月・上海到着。6月・ピストル、七連発の銃を購入。7月・上海出帆、長崎帰着。・・・・・・」とある。晋作は約2ヶ月半の上海滞在で清国の西洋列国下の植民地化を目の当たりにして、国家は「外乱より内乱が恐るべし」ことを学び、「・・・11月・夷人殺害計画をたて神奈川県下田屋に結集、中止。12月・品川御殿山のイギリス公使館を焼き打ち。・・・・・・1983年(文久3年)「<25歳>1月・吉田松陰の遺骨を小塚原から世田谷若林に改葬。・・・6月・馬関へ来り騎兵隊を結成。・・・」、1864年(元治元年)「<26歳>1月・脱藩して上京。・・・12月・長府功山寺に挙兵。馬関新地の萩本藩会所襲撃。」(同)。補足すると、帰国直後、長崎で2万両のオランダ船購入を独断で計画(長州藩の反対で御破算、当時の長州藩は丙辰丸と庚申丸を所有していたがいずれも安政年間に造られた帆船であった)、その後も軍艦に拘り、これまた独断で英国商人グラバーから「オテントサマ丸」を購入し、自ら艦長になって長崎から下関へ乗りつけた。長州藩は怒り狂ったが、井上聞多(馨)がそれを救い、結局はこの軍艦(3万9205両2分の買値で「丙辰丸」と名付けられた)が第二次長州戦争(四境戦争)で大いに活躍したのである。幕府はこの敗戦で凋落し、大政奉還、そして明治時代へと急速に傾いたのだ。親仁の言わんと欲するところは、「百花繚乱」気取りのポピュリズムは、国に要らぬ内乱を招き、国を荒廃破滅させるということである。今は高杉晋作が実践して具現化したように「国を一致団結」させ、この国難に立ち向かうしかないのだ。これが親仁の右傾化か、滑稽か化。 2月24日。

 

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