●高速増殖炉「もんじゅ」の相次ぐ点検漏れ問題。なんとその数は1万件。そして茨城県東海村の実験施設での放射性物質漏出事故。この問題で記者会見した複数の関係者の仄かな笑顔は何を意味しているのか、怒りを覚える。写真の文庫本「三陸海岸大津波」は前出の吉村昭が昭和45年に著した。明治二十九年と昭和八年の三陸沖を震源とした地震、それに昭和三十五年のチリ地震の津波惨禍の記録である。現場を丹念に歩き地元民に真摯に耳を傾け、生き証人の証言や作文をまじえて、その凄まじさを表した「記録文学」である。海面から50メートルの家まで激浪が襲ったこと。過去三百八十年間に大小四十三の津波が三陸沿岸を襲ったこと(うち九例が南米沖の地震津波の余波)。チリ沖地震の場合、津波が三陸に到達するのに22時間半を要すること。防潮堤では防ぎきれる津波の規模でないこと。時間と共に住民の記憶と警戒心が薄れること。海は住民の生活の糧であり、地震直後は高台に家を建てても、そのうちに生活に便利な沿岸に戻ること。・・・・・・。とくに家族を失った(なかには子供1人しか助からなかった)小学生の作文には心打たれた。もんじゅの理事長は天下りか。辞任で「はい、そうですか」と済まされるレベルの問題ではない。東海村の研究者は公務員か。そして今回の東北大震災で、碌(ろく)に調査研究もしなで過去にあった津波の規模を過小評価してきた東電や政治家や大学教官ら。今までの給与や財産は没収に値する。この「記録文学」が世に出た昭和45年(1970年)といったら今から43年も前のことだ。地震津波のバイブルとして必読の金言書だ。それにしても悔しいどころか、激昂でも足りぬ。なぜか「南海トラフ巨大地震」も余地不能という結論。過去に「南海トラフ巨大地震」は何度、いつ発生し、その激浪津波は大淀川を何キロ遡上したのであろうか。そもそも明言できるのは、政府や県や市を頼りにしても自分の命は救えないということ。家族の命は自ら守る決意と術を日頃から強く意識するしかない。「三十六計(さんじゅうろっけい)逃げるにしかず」。先ずは逃げ道を確保して、ひとりと家族で実地訓練を何度もしておくことだ。5月30日。
●去年に知った吉村昭。小村寿太郎を題材(この表現は小村翁に失礼か)にした「ポーツマスの旗」に出会ったのが初めてだ。27日の宮日の「くろしお」に「神々の沈黙」(吉村昭著)の引用文が載っていたが、そこに古賀保範(宮崎医科大学外科学第2講座先生(故人)が紹介されてある。相当むかしの学生時代に読んだ本(心臓外科医について書かれた本で題名は忘却の彼方)を思い出した。古賀先生は「今から46年前、若き日の古賀教授は世界2例目の心臓移植手術を経験した。」(宮日新聞)。親仁の記憶では心臓移植の実験で移植したイヌを世界一の1年以上も生存させたゴッドハンドだ。今や心臓移植は決して珍しい手術でなくなったが、イヌはDLA(イヌの白血球抗原でヒトのHLAに相当)のマッチィングが至難なため術後の拒絶反応で長く生存しなかった。親仁事だが、学生時代、古賀先生の心臓手術(心臓を停止させる人工心肺手術)を数回見学させてもらった。執刀前後の先生は物静かな紳士で、手術中も声を荒げることも全くなく、手捌きも堂堂としていて見ているものを安心させるゴッドハンド。「神々の沈黙」はまだ読んでいないが、吉村昭が先生を題材にしたのも凄いし、先生が吉村昭の目にとまったのも偶然でなく凄い。その「手」にOh! my GOD。5月29日。
●台風一過、否否、「梅雨入り宣言ありて雨降らず」。例年より数日早い梅雨入りだが、何故か翌日は降雨の無い日が多い。何か理由があるのかもしれない。今日は午前の診察をY先生に任せて綾の「ほんものセンター」へ。木脇の「王林」のねぎラーメンで昨夜のニシタチ酒に浸った心身をネギら(労)う。午睡から醒めても雨音は聴こえず。仕方なく枕元の文庫本を読む。吉川英治の「三国志」は6巻を読み終えたが、次の7巻は6月に入らないと発売されない。今、遅れ馳せながら司馬遼太郎(1923~1996)の「坂の上の雲」(全8巻)に挑戦開始した。偶然にもつい先に「勝つ司令部 負ける司令部・東郷平八郎と山本五十六」(ロシア艦隊に完勝した東郷。アメリカ艦隊に完敗した山本)生出寿(おいでひさし)著」の読みかけなので、日露戦争日本海海戦の名口上、「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聯合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモナミタカシ」の文章を見て、久しく遭遇した名文にも感銘。この名電文を起草したのは「坂の上の雲」の主人公のひとりである秋山真之(さねゆき、1868~1918)。「本日天気晴朗ナレドモナミタカシ」(秋山真之は俳諧や書画にも通じていた。)。司馬遼太郎は秋山真之の才能を、秋山好古(あきやまよしふる、1859~1930、ロシア陸軍において世界最強の騎兵といわれたコサック騎兵隊を撃破した)の「弟の真之は海軍に入った。『智謀湧くがごとし』といわれたこの人物は、少佐で日露戦争をむかえた。それ以前からかれはロシアの主力艦隊をやぶる工夫をかさね、その成果を得たとき、日本海軍はかれの能力を信頼し、東郷平八郎がひきいる連合艦隊の参謀にし、三笠に乗り組ませた。東郷の作戦はことごとくかれが樹てた。・・・・・・」。決して驕らず、自信ありげでそれでいて慎重な名電文。万事取巻や参謀の能力に負うところ大だな。真逆では、名参謀の能力を引出し育てるのが名将たる所以だな、肝に銘じよう。梅雨のシトシト長雨、休みに一日中、雨読熱中するのも乙で味なもの哉。5月29日。