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今週の親仁ギャグ・2013年10月20日(日)~10月26日(土)

4日間の衆参両院予算委員会での集中論戦。もっともっと頑張って議論してもらいたい。安倍ちゃんの本音に迫る白熱戦が望まれる。そうでないと安倍ちゃんの想いのままに日本が誘導される危険性がある。民主党の細野豪志衆議院議員が派閥を結成したとのこと。久々の国会論戦を見るに、野党の懐かしい面々が登場していた。弁舌振りを見るになかなかの強兵で小政党の分際ではもったいない。大同団結で次回総選挙を見越した新党結成が最も強力な安倍政権のブレーキになるのだが・・・。10月25日。

●安倍ちゃんの御爺さんは誰もが知る岸信介元首相。その実弟がこれまた元首相の佐藤栄作。(安倍ちゃんはその栄作氏の姪の子供)。佐藤栄作氏がからんだスキャンダルと言えば「西山事件」。沖縄返還の際のアメリカとの密約を蓮見喜久子元事務官を色仕掛けでそそのかし、外務省機密を手に入れて自社(毎日)新聞に発表。国会でも社会党の横路孝弘代議士が質問した。西山太吉氏は裁判で有罪となり、蓮見氏は外務省から追われ、個人的には離婚もした・・・という事件。その西山氏が裁判で主張したことは「政府・官僚が真に秘匿しようとするものはなにか。それは他ならぬ国民から弾劾される秘密である。不当秘密こそが真の秘密であるといっても過言ではない。政府が刑罰をもって威嚇しようとするものは、この不当秘密の暴露なのである。」さあ、歴史は繰り返す、否、歴史は繰り返されるのであるが・・・どうしますこの問題!!! 1971年(昭和46年)の事でした。栄作氏には他にも秘密合意書がある。2009年12月、佐藤元首相の次男で元衆議院議員の信二氏が私邸に保管していた、「沖縄返還にあたり有事の際にはアメリカ軍が沖縄に核兵器を非核三原則に違反して持ち込む事を容認する、父・栄作と大統領リチャード・ニクソンの秘密合意書」(Wikipedia)の存在を明かした。これも日本国民にとっては重大な不利益な秘匿であろうつづく。10月24日。

オバマがメルケル独首相の携帯電話を盗聴した可能性が浮上。それも真実の可能性が高く、彼女はオバマに電話して直接抗議したという情報源は、中央情報局(CIA)及び国家安全保障局(NSA)の局員としてアメリカ政府による情報収集活動に関わった、あのエドワード・ジョセフ・スノーデン氏と推察されるらしい。彼の情報がドイツの週刊誌に流れたのか。そうであれば情報管理に無防備なわが官邸や安倍ちゃんの携帯何ぞや、片っ端から抜き盗まれているだろうに。国家機密となる情報を国民には知らしめず、外国のアメリカが詳(つまび)らかに盗む。何故か、安倍ちゃんが早々の法制化に熱を浴びせている「秘密保全法」。これも靖国神社のA級戦犯に類して彼の血縁が絡んでいるから要注意である安倍ちゃんの大叔父である佐藤栄作(1901-1975)元首相の妻、寛子(1907-1987)夫人は松岡洋右(1880-1946)元外相の姪。松岡洋右は第二次世界大戦後、A級戦犯として裁判中に結核で病没。また、爺さんの岸信介(1896-1987)元首相も戦後、A級戦犯として巣鴨拘置所に入れられたが、1948年12月23日、東條英機ら7人のA級戦犯が絞首刑された翌日の24日、なぜか釈放されている。この背景には戦後早くも深まりつつあった「米ソ対立」(冷戦)に対してアメリカが彼を必要としたからだ・・・という説に納得!!! つまり、親仁の穿り過ぎた観方は、安倍ちゃんが血縁親族の名誉回復に異常に懸命で、執念を燃やしているのではということだつづく。10月24日。

そこで話題にしたいのが「日向灘地震」。いつ、どの程度の大きな地震が襲ってくるか日向灘地震の震源域は南海トラフ(遠州灘~いわゆる日向灘南端)の西端部分の海域一帯である。今知られている日向灘地震の歴史を調べてみよう。1498年7月9日(震央地は豊後水道/M7.0-7.5)、1662年10月31日(日向灘/M7.6)、1899年11月25日(日向灘/7.1)、1899年11月25日(日向灘/M6.9)、1929年5月22日(日向灘/M6.9/震度5)、1931年11月2日(日向灘/M7.1/震度5)、1939年3月20日(日向灘/M6.5/震度4)、1941年11月19日(日向灘/M7.2/震度5)、1961年2月27日(日向灘/M7.0/震度5)、1968年4月1日(日向灘/M7.5/震度5)、1970年2月26日(日向灘/M6.7/震度5)、1984年8月7日(日向灘/M7.1/震度5)、1987年3月18日(日向灘/M6.6/震度5)、1996年10月19日(日向灘/M6.9/震度5弱)、1996年12月3日(日向灘/M6.7/震度5弱)。最近の17年は発生していないからそろそろか。「津波は、自然現象である。ということは、今後も果てしなく反復されることを意味している。」のだが、日向灘地震は、震度5のレベルで三陸沖地震に比べたら小規模である。少なくとも20mも30mもある津波は記録にない。最も有名で大きな地震が1662年の「外所(とんところ)地震」であり、それでも津波の高さは宮崎で4~5mと推定されている。3・11の前にも東北大と北海道大学の教授が三陸の現地での地層(堆積物)を調べ、津波の高さと到達程度を推測していた。貴重な研究を無視した政府や東電の罪は計り知れない。吉村昭著の「三陸海岸大津波」もしかり。よって親仁は、15メートルもあるような日向灘地震は発生しないと踏んでいる。仮にトラフが連動したとしてもだ。有田や国富の先まで大淀川縁に土を掘って海の堆積物を調査すべきである。それにしても自分の命を守るには「一にも二にも逃げるにしかず」ですぞ。10月23日。

●「津波は、自然現象である。ということは、今後も果てしなく反復されることを意味している。」(「三陸海岸大津波」・文春文庫・171ページ)。記録文学の創始者で権威の吉村昭が明治29年と昭和8年の三陸沖地震、それに昭和35年のチリ地震によって襲来した巨大津波について前兆や被害、住民の記憶や子供の作文をきめ細かく取材して克明に書き下ろしたもの。2004年が第1刷なので今回の東日本大震災の9年も前の書きものだ。ところでこの度の豪雨被害にあった伊豆大島は言わずと知れた火山の島だ。この島では「約2万年前から現在まで、100年ないし200年毎に合計100回前後の大噴火を起きたと考えられている」(Wikipedia)。最近の三原山噴火は1950-51年(昭和25-26年)と1986年(昭和61年)。55年前(昭和33年の狩野川=かのがわ台風)には土砂災害で多数の犠牲者(死者・行方不明者は1269名)を出ししている。親仁は、「過去になかった災害はない」ことを確信しているひとりである。歴史から学べば多くの災害や災難は防ぎ避けることが可能と思うのである。是非とも、吉村昭の「三陸海岸大津波」を読んでもらいたい。つづく。10月22日。

衆院予算委員会が開催中だ。本県選出の財務副大臣が公務員宿舎問題で幾度か答弁に立っていた。数個のセンテンスでポツボツとした中身の無い答弁に終始。後ろの財務官僚から耳打ちされ(カンニングだ)、声の覇気なく、胆気さえ疑う様相だ。全くの官僚よりの答弁内容で、国民の代弁とは程遠い。今の県選出(1人は中国比例区選出)の国会議員は2人を除き若い。ロ―トルの2人も数度の落選や問題発言の常習犯で国民の信望は薄い。それからすれば既に他界した先輩議員が足の引っ張り合いで後輩の育成を如何に怠ってきたかが明白である。国会議員になっても過去の栄光を取り戻せない前県知事。額とは反比例に失せる一方の威光。自ら蹴散らして捨てた宮崎にまた戻りたいという傲慢さ。自身の損得勘定だけで、公僕精神なんぞとても持ち合わせていない輩である。人材がいない国会論戦を大いにやって、官僚の頭脳を引出すことだ。官僚の頭脳が休むことなく国会を開き、彼らに都合のよい国家運営を阻止すべきだ。10月22日。

●昭和23年(1948年)12月23日の未明、東條英機(1884-1948)らA級戦犯7人が処刑され、火葬されて遺骨は海(東京湾)に撒かれた(しかし残った遺灰を回収した人物=小磯国昭の弁護人である三文字正平がいた・・・)。今回の靖国神社例大祭参拝大臣は総務相の新藤義孝衆議院議員(母方の祖父はあの「硫黄島玉砕」(1945年2月~3月)の栗林忠道中将(1945年3月26日自決し、連合軍から太平洋戦争中最も勇敢な軍人と評された)で遺骨はない)と国家公安委員長の古屋圭司衆議院議員の2人。「ひとりの日本人」として・・・だが、A級戦犯が合祀されて以来、昭和天皇は靖国参拝を拒絶し(富田メモ)、現天皇も参拝していない。安倍ちゃんも「行きたくて行きたくてたまらない」が、中国と韓国、そしてアメリカの怒りを懸念して足を向けられない。親仁の靖国参拝に関する意見は、靖国神社でA級戦犯に手を合わせるのはドイツ国民が正正堂堂とヒットラー(拳銃自殺して最後は焼かれて川に流され墓はない)に合掌するのに等しい、日本は敗戦国であり、異論(アメリカの策謀で開戦を仕向けれれた=最後通牒の「ハル・ノート」)もあろうが、大陸をはじめアジアの多くの人々に甚大な犠牲と苦痛を与えたのは真実であり、東京裁判の判決は受け入れざるを得ない、彼らが戦争終結を遅らせたことが、沖縄戦や広島・長崎の原爆投下をはじめ本土一般人の犠牲を多大とした・・・に集約している。10月21日。

●「伊豆大島」の土石流、土木流災害はやはり人災。誰も口にしないが、三原山の山肌に築かれたジグザグの道路。素人目にも拙い造作ものだ。先ず、道路工事は頂上側にコンクリートの壁面を造る。ジグザグの急カーブや道路の凹み部分に流水が集中する。これらは多量の雨水が一部の山肌に集中することを意味し、その火山灰層を泥状化するということだ。いつ建設されたかは知らぬが、1886年の三原山噴火後であることは確かだ。それも観光のための可能性が高い。つづく。10月20日。

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