●冬の帽子。1カ月前に夏のパナマを、そして先週は間(あい)の帽子を滅菌して冬仕度を済ませた。合(=間)服ならぬ間帽(あいぼう)は宮崎では3月~4月の春と9月~10月の秋に被る。(親仁の相棒の間帽の生地は生意気にも薄手のシルクなので通気もよいが、残念ながら間帽はあまり販売されていない。親仁はトラヤオリジナルを被っている)。11月となれば合点承知之助のフェルト。パナマとフェルトを比べると、やはり後者の方に愛着がある。もう10年以上も被り続けている代物もある。春には陰干しをしてビニールに入れガス滅菌すれば、そのくらいは余裕のよっちゃんで品質を保持できる。銀座のトラヤさんに教えられたが、フェルトはスチームを当てて馬の尻尾の毛でできた専用のブラシを使ってメンテする。そして晩秋となり、帽子専用の箱から出したフェルトにスチームを当てて出番を知らせる。蒸気を浴びたフェルトは直ぐに軟らかくなるので、そこで崩れた帽子の型を直す。1分もすれば乾いて固くなり元の型に戻る。スチームを当てる時、ついでに帽子に左手を突っ込んで反時計回りに回転させながら、右手でブラシッングする。(その実は右手のブラシで帽子を回しているのが正しい)。そうすれば、まるでフェルトが息を吹き返し、(スコッチ)ツイード風に鮮やかな光沢を帯びて蘇る。(ツイードの帽子も持つが)親仁所有の7割は兎のフェルトなのだが、それがツイードのように逆立つのである。男50を疾うに過ぎて少しはフェルトが似合うようになったが、その下にある髑髏(されこうべ)の中身が歳についていってないから、おつむてんてんのピカピッカ。フェルトも靴などの皮革製品と同じで生き物ってことだ、おつむも何もかもが愛の手入れを待っているか。11月16日。
●異例の法案成立後の見直しを示唆というか、これは表明だな。特定秘密保護法案の審議中での森まさこ担当大臣の答弁。同大臣が12日に「第三者委員会の設置を検討する」という見解を打ち消したことになる。そして、親仁が主張する早期(例えば5年)の公表に関しても、当事者(特定の秘密保護の事案に関った首相や大臣などの政治家や官僚)への復讐もあり得るので期限は決められないという答弁。それで思い出されるのがポーツマス条約(1905年=明治38年9月5日)を締結した小村寿太郎外相への庶民の攻撃である。講和条約成立後の留守宅には、「『国賊小村は自決し天皇、国民に謝罪せよ』とか『斬首する』といった過激な手紙などが数多く舞いこむようになり、一家皆殺しにするという手紙も増していた。」・・・・・「官邸には、小村の妻町子、長男欣一、長女文子、次男捷治と執事宇野弥太郎、女中、下男がいた。午後七時頃、家の中に数名の巡査を連れた警部が入ってくると、『群衆がやってきています。内相官邸は襲撃されました。戸を一つ残らずしめて下さい』と叫んだ。・・・・・口々に国賊、売国奴、露探などと叫び・・・石油を注ぎ火のつけられた俵が塀越しに投げ込まれはじめ・・・窓ガラスが破られ雨戸を拳や棒でたたく・・・欣一も宇野も殺されることを覚悟し・・・」(9月5日)。「九月六日、政府は東京市と隣接地に厳戒令の一部を施行し、・・・」(吉村昭著「ポーツマスの旗」新潮社pp310~312)。時代背景が大きく異なるが、森大臣はこのような事態を想定しての答弁であろうか。がしかし、(給料が税金の)公僕でしかも命を賭して政界に身を置いているであろう首相や大臣ともあろう者が、復讐なんぞを気にかけているようじゃ・・・だらしない。それこそ売国奴であり、そんな連中が特定秘密保護の案件処理に携わり押印するなんぞ、それこそ国と国民を冒涜するものぞ。呵呵!!! 11月15日。
●天安門前テロで中国政府がビビっている。小泉純一郎の原発ゼロで安倍ちゃんや自民党幹部が焦っている。そもそも原発がテロの標的となったら・・・と想像すると背中がゾッとする。その原発を外国に売りこんでいる政府と三菱や日立などの大手企業。原発で一国が顛覆しかねない時世。次に特定秘密保護法案。今でさえ約40万ともいう○秘が存在するという。大臣経験者がカメラに語っていたが、大臣をしても到底全ての秘密(機密)を把握できないというか、できるような半端の分量ではないという。それ故、大臣交代の時にもその伝達は皆無に等しいらしい。家庭にだって秘密はあろう。ましてや国にはごまんとあろう。無けりゃ、国の体はなされない。故佐藤栄作元首相の沖縄返還時の密約問題は前に書いた(西山事件)。政府は未だにその存在すら認めていない。当の本人はあの世だ。問題は誰が○秘の印を捺すのか(どうせ官僚だろうが)よりも、用が済めば公表されることだ。年限は5年物もあれば、30年物もあるだろう。最も重要なことは、政府と行政など当の責任者が存命中に世の白日の下に曝されるべきだろう。あの世に行ってからの生前の名誉や評価は意味をなさないし、それに責任論もへったくれもない。最後に徳州会の公職選挙法違反事件。裏金をこんもりとつくって不出来の息子を国会議員にする。北海道から沖縄まで正しく全国に60も70もの病院と、600も700もの関連医療施設(クリニックや介護施設など)を展開する名実とも日本一の医療グループである。何億もの金を誤魔化してまで吸ってきた、吸っている「甘い汁」とは何ぞや。徳田議員が厚労省などに働き利用して得た権益とは何ぞや。それを炙りだすのが捜査の核心だろう。もっともっと国民は怒らにゃいかん!!! 憤、ふん、フン!!! 今日の「徒然草」。11月13日。
●11月8日にフィリピンを襲った、中心気圧895ヘクトパスカルという脅威の勢力の超メガトン台風。特に被害の大きかったレイテ島は北緯10度近辺(東経125度)なので赤道の僅か北。だから、エネルギーが半端じゃない。日本では台風30号だが、アジア名はHaiyanというらしい。レイテ島の中心都市タクロバン市周辺は最大瞬間風速90mの暴風雨と高潮に見舞われ、犠牲者(死者)が1万人を超えるというから尋常ではない。このレベルの気圧ではそれだけで海面が1mも上昇するとのこと。これに暴風が加わっての高潮被害。ところで、歴史的な台風と言えばやはり「伊勢湾台風」。時は1959年9月26日、台風15号(国際名Vera)が潮岬に上陸し、伊勢湾沿岸を中心に甚大な被害をもたらした。台風発生後の最低気圧は895hPa、最大風速は90m。上陸時の気圧は依然930hPaを保っていた。そして、なんと死者が4,679名、行方不明者が401名、負傷者が38,921と記録されている。これがカテゴリー5のスーパー・タイフーンの威力だ。「世紀の」というだけあって、地震も津波も台風も人智を超えている。「逃げるに如かず」だろうが、レイテ島ではそれも叶わなかったのだろう。哀しいことだが、遠い異国の、他人事でもない。伊勢湾台風が半世紀以上の前の出来事と思ったら、大間違いだろう。住んでいる建物も比べものにならぬくらいに頑丈だし、それなりに防災対策も施してあると考えたら、それこそ「東日本大地震」の二の舞だ。現に、明治29年(死者数は26,360人)と昭和8年(死者数は2,995名)の2つの三陸海岸大津波被害の教訓が全く生かされなかった明白な事実がある。11月11日。
●橋梁の専門家じゃないので出しゃばったことは垂れられないが、小戸之橋の渡行禁止の影響は甚大である。それも新橋架け替えまでに8年間を要するという。宮崎市の広報は、「現在の小戸之橋は、昭和38年に建設され、建設してから約48年経過し、老朽化が著しく、また、片側の歩道で歩行者、自転車の安全が確保されていないことなどから、平成18年より架け替えの計画を進めてまいりましたが、平成23年3月17日に宮崎県知事より、事業認可の告示があり、正式に架け替え事業のスケジュールが決定いたしました。今後のスケジュールとしては、平成25年11月から小戸之橋の撤去工事に着手し、平成33年3月の開通を目標に進めてまいります。なお、事業認可の告示に伴い、関係法令に基づく制限等がございますので、ご注意ください。」と知らせている。ちょいと計画から認可、そして工事着工と竣工までの期間があまりに長く過ぎないか。(しばらくは歴史の話が頻繁に登場するだろうが)あの安土城だって1576年(天正4年)1月に築城が開始され、3年後の1579年5月には完成している。1610年に築城が開始された名古屋城だって、僅か1年足らずで石垣を完成させる早技もの。もっとも、延べ558万人の工事役夫を要したが。北朝鮮のスキー場のゲレンデだってこれに負けないくらいの突貫工事だ。どちらも人海戦術ということだろうが、8年というのはいかにも長かろう。予算の問題が大きいのであろうが、遠回りして大淀大橋や赤江大橋を渡り切る時間や燃料代を考えたら、一体1日にどの程度の経済的損失になるのであろうか。水道や電気、ガス、そして橋などは絶対的必需の生活インフラであるから、地方債を発行するなりの工夫が必要だろう。出来れば周辺の土地を購入して、今の橋を利用しながら新しい橋に架け替えるという方法もあっただろうに。(ほんの一昔前までは今以上に橋の数が多かったと聞いた。当然ながら、木の橋で台風などの大水でよく流されたというが)。行政のやることは、本当に「とろい」。今後、老朽化した水道管や都市ガス、トンネルなどのインフラを思うと気が遠くなる。50年がそれらの寿命なのだ。人間だけか、70や80歳になっても矍鑠(かくしゃく)、いや赫灼(かくしゃく)としているのは。皆、辛抱我慢して仕事に精を出そうじゃありませんか。11月10日。
- 光秀の娘婿と、行状が残酷至極であったために信長三男の信孝と丹羽長秀の命で本能寺の変の直後に殺害。この時代の小姓は武将の様々な世話から、重要な伝達役、戦では馬上の主を槍を振
- な想いが錯綜して感慨も一入ですぞ。登頂間近の行き交う観光客が、あまりの急峻に「俺は戦国武士にはなれないな」を言っていたのが印象的で同感。前の写真は本丸に近い石段脇にある森
- んだのだから、歴爺にはもう堪らん。親仁が最近読んだ戦国小説は司馬遼太郎の「新史太閤記(上・下)」(新潮文庫)と童門冬二の「軍師黒田如水」(河出文庫)。現地に行って是非ともあの天守
- を大老就任の2カ月後の1858年6月に調印。あの吉田松陰らを刑死させた1859年の安政の大獄を経て、1860年3月3日に桜田門外に散った、46歳であった。これに関する親仁が読んだ小説は司馬遼太郎