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今週の親仁ギャグ・2014年3月9日(日)~3月15日(土)

●「もうすぐ春ですね~」を春一番の東風が追っ払って漸く春が到来。そう、3月14日に選抜高校野球の組合せが決まり、21日が初日である。選抜の声が聞こえると我身では衣替が気になる。今週、冬のフェルト帽は蒸気で丹念にブラッシングして滅菌を済ませた。問題は、牛ではないが、冬には皮下の脂身が皮膚を張りちぎりそうに醜体化する。きょうは減量作戦4日目。来週から2週間はなにかと呑み会が目白押しに立て込んでいるので・・・その分運動をしなければ・・・と一大決心。そう、痩せないと春夏のズボンを佩くことも・・・もしやシャツも着れないかもの不安があるのだ。今月中に3キロ・・・できれば1カ月で5キロ減量成就できれば、また気に入りの帽子と衣服が身に纏えるということだ。呵呵!!! 3月15日。

●ではそもそもの”いわゆる村山談話”の原文は・・・「戦後50周年の終戦記念日にあたって」先の大戦が終わりを告げてから、50年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様1人1人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。私たちは過去のあやまちを2度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この2つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。いま、戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。「杖るは信に如くは莫し」と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。終戦50周年の平成7年8月15日。3月14日。

日本が中国、韓国はじめアジア諸国に犯した罪。そうであれば旧ソ連が(日ソ中立条約などの国際法を無視して)日本に対して行った各種の戦争犯罪について調査し、謝罪と賠償を求めて然るべきである。中韓の意見には一切耳を傾けずに、一方でロシアには媚を売って擦り寄る。戦争を仕掛けた方と仕掛けられた方、戦争に負けた側と勝った側・・・1週間でも2週間でも山口の秘湯で湯治でもして改心して出直して下され。そういう意味では、今日の所見でレイ点数歩は前進したか「安倍晋三首相は14日午前の参院予算委員会集中審議で、従軍慰安婦制度への旧日本軍の関与を認めて謝罪した1993年の河野洋平官房長官談話について『安倍内閣で見直すことは考えていない』と言明した。また、慰安婦として従軍した女性に関し『筆舌に尽くし難いつらい思いをされた方々のことを思い、非常に心が痛む』と語った。自民党の有村治子氏への答弁。首相は日本の植民地支配と侵略を謝罪した95年の村山富市首相談話などにも言及し、「歴史認識に関する歴代内閣の立場を全体として引き継いでいる」と強調した。(時事通信 3月14日(金)9時23分配信)。そうでなけりゃ、アベノミクスの腰折れも必然で・・・政治と経済は一体であることをお忘れなく。経済対策に集中して下され
参考までに・・・先月27日の日本記者クラブでの村山富市元首相の会見内容は・・・”慰安婦募集の強制性を認めた平成5年の「河野洋平官房長官談話」の検証を求める動きがあることに対し「詮索することは意味がない。収まった問題をあげつらい、『日本はけしからん国だ』といわれる状況を作って何になるのか」と批判した。村山氏は「(談話は)業者、軍、政府関係の資料を調べて総合的に判断して作られた。軽はずみに根拠なく作った作文とは思えない。事実がなかったとあげつらって何の意味があるのか」とも語った。また、今月中旬に韓国の国会内で講演した際、首相在任中の7年に表明した「村山談話」について「国際的な約束事、日本の国是みたいなものだ」と説明したことを明らかにした。日本固有の領土である尖閣諸島(沖縄県石垣市)について「中国、日本、台湾も含めて近辺の国が共有すればいい」と指摘。安倍晋三首相の靖国神社参拝に「外交関係が悪いのを承知の上で行ったのはよくない」と苦言を呈した”(産経ニュースネット版)。3月14日。

クリミア半島へのロシア軍介入による実質的占領は日本にとっても過去を復習する絶好の機会である。大戦の終局間際の1945年4月5日、ソビエトは日ソ中立条約を破棄通告。日ソ中立条約は規約により締約更新の1年前に通告しなければ自動更新されることになっており、このソビエトの通告により、1946年4月25日に失効することになった・・・のだが実際はどさくさまぎれに一方的に条約を無視して侵攻し、日露戦争で日本が獲得した千島(北方4島を含む)と南樺太を占領した・・・現在に至るがこれは条約無視の国際法違反であり、それらの帰属はポーツマス条約締結時の状況に戻すのが正当である。かつ、ソ連が満州における日本人への蛮行についても徹底的に調査する必要があろう。「すみませんでした」(ソ連はわが国対して未だに正式な謝罪をしていない)では済まない。それこそ「賠償問題」レベルの事件である。70万人に及ぶシベリア抑留と強制労働。過酷労働による日本人死者は7万人ともいわれる。日本人婦女への強姦などの真相も詳らかにされなければなるまい。「2島返還説」や「当分面積返還説」などとんでもない。4島はもちろんのこと、ポーツマス条約締結時のままそっくりに返してもらうのが筋である。そうでなけりゃ、平和条約なんてのはありえない。安倍ちゃんはクリミア・ウクライナ情勢に対して明確なメッセージを送り続けないと「ならず者国家」で国際法完全無視のロシアになめられっぱなしぜっせ写真有。3月12日。

●2年ほど前になるか、千島・樺太の領土帰属に関してこの「親仁ギャグ」で1週間を費やして調査したのだが、あろうことか「文字化け」で消滅した。2度目となると億劫でなかなか腰が上がらない。そこで超簡潔にまとめてみよう。>①1855年、日本とロシア帝国は日露和親条約(下田条約)を結び、択捉島と得撫島の間を国境線とした。1875年、日本とロシアは樺太・千島交換条約を締結し、樺太はロシア領に千列島は全島日本領土とされた。1904年~1905年も日露戦争後のポーツマス条約により南樺太が日本に割譲された。1945年8月8日、ヤルタ協定通り、ソ連は日ソ中立条約を破棄し対日宣戦布告し、北方4島を含む千島全島と南樺太を占領・・・・・戦後68年が経過した現在も占領中つづく。3月11日。

おとといの端坐に続いて今日も・・・。そう、東日本大震災から丸3年の午後2時46分の1分間の黙祷。テレビはどの局も震災特集をやっている。そんななかどうもしゃんとしないのがフクイチだ。きのうか、安倍ちゃんは水素エネルギーの実用化に言及していたが・・・一方で既存の原発再稼働も依然、視野のなか。その中でも静岡の中部電力支配の「浜岡原発」が防潮堤を嵩上げして再稼働審査申請のかまえ。浜岡原発が第二のフクイチになろうものなら都心は住めなくなる可能性も少なくない。世界文化遺産の富士山なんてそれこそ写真か、それとも甲府の側から見るしかない。この国の指導者や企業とやらは一体何を国是や社是としているのやら。親仁のおつむじゃ、理解不可能だ。3月11日。

「竜馬がゆく」読破。2月2日から3月9日まで日に100ページのペースだが、ニシタチに出向した日はゼロページ。診療が暇な時と休日に稼ぐ。根を詰めて一気呵成でないと長編ものは頓挫する。今日は最終章の「近江路」。そう、中岡慎太郎とともに暗殺された「近江屋」のくだりである。司馬遼太郎が「竜馬がゆく」を書き始めたのは昭和37年初夏という。「あとがき五」で特に印象に残った箇所がある。「この暗殺の直前、二条城にいる徳川慶喜が、たれの口からきいたか、竜馬の名を知った。その竜馬が大政奉還の立役者であり、かつ反幕志士のなかで唯一の非戦論者であることも知った。むしろ慶喜は竜馬において同士を見出した思いがあったのであろう。『土州の坂本竜馬には手をつけぬよう、見廻組、新選組の管掌者によく注意をしておくように』と永井尚志に言いふくめた。永井はむろん竜馬を知っている。当然とおもい、翌朝、慶喜の言葉を管掌者に伝えるべく出仕したところ、机の上に紙片がおかれている。紙片には、昨夜、竜馬を暗殺した旨、躍るような書体で大書されていた。・・・・・」(「竜馬がゆく八」p420)。次は「西郷隆盛」を主人公にした「翔ぶが如く」(征韓論から西南戦争まで・・・全十冊)と決めているが、「竜馬がゆく」の余熱が冷めるまではまだ少し日が要るようだから、つなぎに時代を七百年遡った「義経」(上下二巻)に挑戦開始。「近江路」に入る前は竜馬が嫌った洗顔をし、読み終えた瞬間は竜馬に跪いて手を合わせた。そういう心境にする司馬遼太郎の歴史小説に敬服至極である。竜馬の如き偉人が激動の幕末を東西昼夜を問わず「私心」なく奔走したことに、一介の後人として誇りにおもう次第である。先週の主テーマは「旧暦」であったが、竜馬は生まれも命日も旧暦の11月15日。もちろん必然とどちらも満月の日だ。沖天の満月は「竜馬の月命日」・・・と竜馬をおもおう。3月9日。

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