●きょうは午前で臨時休診。台風のときは寝ころんでの読書に限る。風雨の小康状態をついて書店へ。2店物色だが、所望のものが置いてない。そこでTSUTAYAへ。・・・・・・今月号の文芸春秋で思いもよらぬ掘り出し物。渡邉恒雄の「安倍首相に伝えたい『わが体験的靖国論』」(pp254-264)。知るところでは、ナベツネは中曽根康弘元首相と盟友懇意なので極に近い「右翼」と思いこんでいたが、実はいわゆる正閏で仕分するなら「閏」の部類であった。親仁も幾度となく「靖国参拝」などについて記述してきた。日本新聞界の巨魁に対してはなはだおこがましいが、同じような意見であることに、自然に親近感が湧いてきたから・・・・・人間が単純なのだろう。8月9日。
●従軍慰安婦問題がにわかに風雲の気運。朝日新聞が従軍慰安婦証言が虚偽捏造であったことを認めた。記事を書いた所属記者、植村隆氏は今年の3月に早期退職し、現在は北海道の私大で非常勤講師という。もうひとりの売国奴は吉田清治氏(故人)。彼は『私の戦争犯罪』(1983年)などの著書の中で、済州島などで戦時中に朝鮮人女性を慰安婦にするために軍令で強制連行(「慰安婦狩り」)をしたと証言した人物。結局、後の日本と韓国の追跡調査から創作であることが判明している。ふたりの売国奴の虚言創作シナリオで今の窮状があるといっても過言ではないのだ。つづく。8月9日。
●きのう一番気になった記事。「『大野の悲劇くりかえすな 消えた甲子園の夢と剛腕の将来』(産経新聞 8月7日(木)21時0分配信)高校球児が全国の頂点をめざす夏の甲子園が9日から始まる。照りつける太陽に、まとわりつくような暑さ…。酷暑の甲子園球場でのスタンド観戦も、実はそんなに楽なものではない。それでも球場に足を運んでじかに見てみたいと思わせる選手が現れる。この夏も、期待した剛腕がいた。愛媛・済美高の安楽智大である。昨春、2年生ながらセンバツ5試合で772球を投げて準優勝した。この熱投が引き金となり、昨夏の甲子園から準決勝前日に「休養日」が設けられるようになったのだから、ある意味で甲子園の「歴史」を変えた投手といっていい。その安楽は昨秋、右ひじを痛めた。センバツ、選手権、さらに18歳以下ワールドカップと投げ続けていた負担が噴き出したともいえる。最後の夏も、その影響がなかったとはいえないだろう。結局、安楽はこの夏、愛媛大会3回戦で散った。2年のとき157キロをマークした球速は、高校最後の試合での最速が148キロ。あの剛速球は、よみがえってはこなかった。平成18年夏の甲子園、早実の斎藤佑樹は948球を投げた。決勝で敗れた駒大苫小牧の田中将大も658球を投じている。平成10年夏の優勝投手、松坂大輔もまた767球を記録した。彼らはいずれもプロに進み、投手としての実績を残している。しかし、投球過多によって将来を奪われた投手もいる。平成3年第73回全国高校野球選手権の沖縄水産の大野倫だ。3回戦から決勝まで、彼は4連投を強いられた。ネット裏の記者席で見ていると、日に日に彼の球威が衰えていくのがわかった。決勝戦などは、見るのも痛々しいほどの投球だった。深紅の優勝旗を勝ち取るために、黙々と投げ続けた彼の投球数は773。試合後、右ひじは「く」の字に曲がったままだった。その代償は「疲労骨折」。のちに大学、プロへと進んだが、彼がマウンドに立つことは二度となかった。大野の悲劇をくりかえさないよう、日本高校野球連盟の総務委員会は平成5年、翌夏から準々決勝と準決勝の間を1日開ける日程延長を決めた。5年2月17日付産経新聞朝刊に、「来夏から甲子園に中休み」という見出しの特ダネ記事が掲載されている。当時の牧野直隆会長の「将来ある若者の肩をつぶしてはならない」という談話つきである。ところが、これは共催者の反対で見送られたという。「ソロバンをはじくと1日延びれば経費もかさむ。球児より、おとなの都合優先というのが理由だった」当時取材したベテラン記者は言った。あれから休養日ができるまで20年の歳月を要した。ただ、問題は現場の意識であろう。あのころ、牧野さんが主張した「エースの負担を軽減するための複数投手の養成」といった方策は進んでいるのだろうか。OBたちの圧力が強い強豪校ほど勝利にこだわるため、エース続投に固執してしまう傾向は変わってはいないのではないか…。安楽の最後の夏を甲子園で見たかった。けれど、そこにたどりつく前に敗れ去ったことで、肩、ひじの酷使を免れたとすれば、彼の将来を考えるとき、これでよかったとも思えるのである。(正木利和)」。そうか、バックネット裏の中央特別自由席が1600円から2千円、アルプス席一般が500円から600円になるなど11年ぶりに入場料が改定されたのもそのためか。それくらいは我慢して負担しないとな。一日座りっぱなしでももらう感動からしたら断然安すぎ。あす開幕! 8月8日。
●今回の「佐世保・高1 同級生殺害事件」の真相。やはり週刊紙を熟読しないと真髄真相が解らない。新聞は上辺で、ワイドショーのコメンテーターも所詮は三文識者。児童相談所の落ち度というか無責任さは腹立たしい。児相職員の扶持は税金であることを忘れないことだ。「ヤクニン」の上司である御偉方が数分出て来て猿芝居の叩頭だけで一件落着とする性根根性にはゲロが出る。職務怠慢の責任逃避の白白しさが浅ましい。8月8日。
●「『これは役人にすぎん』と、クーパー提督やサト―通訳官はそうおもい、そのことを自分たちの国語で話しあった。『ヤクニン』という日本語は、この当時、ローニン(攘夷浪士)ということばほどに国際語になっていた。ちなみに役人というのは、徳川封建制の特殊な風土からうまれた種族で、その精神内容は西洋の官僚(ビユーロークラシイ)ともちがっている。極度に事なかれで、何事も自分の責任で決定したがらず、ばくぜんと、『上司』ということばをつかい、『上司の命令であるから』といって、明快な答えを回避し、あとはヤクニン特有の魚のような無表情になる。上司とはいったいたれか。その上司とかけあおう。と、外国人が問いつめてゆくと、ヤクニンは言を左右にし、やがて『上司』とは責任と姓名をもった単独人ではなく、たとえば『老中会議』といった煙のような存在で、生身の実体がないということがわかる。」(司馬遼太郎「世に棲む日日・四」pp222-234『ヤクニン』)。理科学研究所、佐世保児童相談所・・・・・誰の責任で、誰が責任をとったのか、とるのか、「ヤクニン」さん達よ、財政的にも外交的にも行き詰りつつある日本丸の未来は大丈夫です? つづく。8月7日。
●原発再稼働賛否の構図の概略はこうであろう。鹿児島(川内)にしろ玄海にしろ大飯にしろ原発立地の地元にはその稼働によって莫大な補助金が落ちる。稼働しなくても所詮「トイレのないマンション」だから、その危険性はゼロではない。それなら稼働して補助金をもらったほうが得である。いわゆる「金目」ということだ。原発の隣接自治体である大阪も滋賀も函館も再稼働にはこぞって大反対である。風下で少益多害な宮崎は当然ながら反対する立ち位置になければならない。どうにも解せない河野知事の態度。それもダンマリで日和見的態度の県民生命軽視は、政治家として明確な失格者である。怒り心頭に発す。8月4日。
●それにしても「日和見政治」というか「官僚政治」というか、河野宮崎県知事は川内原発再稼働をどう考えているのか。おりしも霧島連山や桜島、離島(3日、沖永良部が34年ぶりに噴火)の一連の火山活動が活発だ。テロだって無きにしも非ずだ。フクイチの放射能は9割が太平洋へ流れた。川内で事故が起これば宮崎の被害は、コトしだいではフクイチの二の舞だ。なんとも発しない知事。情けないことだ。こんな人種に県政を任せてよいのだろうか。憤慨至極。つづく。8月4日。
●さらに九月二九日の日記(抜粋)『同宿の修行遍路 いづれ炭坑夫などのドマグレで、からだには鯨青(いれずみ)のあとがある手合いだろう 酔ひしれて、宿のものを手古摺らし同宿人の眉を顰めさせてゐる、此地方では酔うて管を巻くことを山芋を掘るといふ、これも面白い言葉である。言葉といへば此辺の言葉はアクセントが何だか妙で、私には解らないことが多い、言葉の解らない寂しさ、それも旅人のやるせなさのい一つである。』(同pp34-35)。さらにさらに十月八日の日記(抜粋)『日向の自然はすぐれてゐるが、味覚の日向は駄目だ、日向路で食べもの飲みものの印象として残つてゐるのは、焼酎の臭味と豆腐の固さとだけだ、今日もその焼酎を息せずに飲み、その豆腐をやむをえず食べたか。』(同p54)。どうも日向は日南で飲んだ水以外は所望でなかったようだ。是非、山頭火の宮崎旅記を読んでみなしゃれ。8月3日。
●昭和5年、熊本の人吉から京町(今のえびの市)に入ったのが9月17日で宿は福田屋。それから県内各地を行乞してまわった。11月3日が宮崎での最後の投宿で、宿は延岡町の山蔭屋。宮崎市には9月25日、都城から汽車で入った。宿は京屋。数日、同宿に逗留し9月30日は折生迫の角屋。9月27日の日記がいい。『九月二七日 晴、宿は同前、宮崎神宮へ。今日は根気よく市街を行乞した、おかげで一日や二日、雨が降っても困らないだけの余裕が出来た。帰宿したのが四時、すぐ湯屋へ、それから酒屋へ、そしてぶらぶらと歩いて宮崎神宮へ参拝した、樹木が若くて社殿は大きくないけれど、簡素な日本趣味がありがたかった。この町の名物、大盛うどんを食べる、普通の蕎麦茶碗に一杯盛つてたつた五銭、お代わりをするのはよつぽど大きな胃の腑だ、味は悪くもなければ良くもない、とにかく安い、質と量とそして値段と共に断然他を圧してゐる、いつも大入だ。夜はまた作郎居で句会、したたか飲んだ、しゃべりすぎた、作郎氏とはこんどはとても面接の機があるまいと思つてゐたのに、ひよつこり旅から帰られたのである、予想したような老紳士だつた、二時近くまで四人で過ごした。』(山頭火 行乞記 編・村上護 p30)つづく。8月3日。
●MRTラジオの「ワン・ニャン譚」のネタ探しも苦労辛苦のタネ? 明日が収録なので今日中にシナリオを書かなくてはならない。今回のネタは「種田山頭火」と「徒然草」。時間に5分という制約があるので、想いの一部しか喋れない。そこで徒然草と吉田松陰、そして高杉晋作のひょんな関りについて面白い譚があるので紹介しよう・・・と考え・・・(「親仁ギャグ」も薄ネタで陳腐なので)・・・しようがないので載せてみっか。これまた司馬遼太郎だ。「世に棲む日日」。晋作が騎兵隊を拵えて、藩内の佐幕派いわゆる俗論党を藩内革命で打倒したあとで、1866年の第二次長州征討の前のことだ。当時事実上の藩政のトップといって差し支えない晋作は、攘夷を捨て、下関を英国に開港しようとした。それが攘夷に過激な暗殺団に漏れて、愛人「おうの」と一緒に大阪や四国に逃げた。その大阪に潜伏中、晋作はこの徒然草を所望したくなって本屋を訪ねたが、そこの店主にお尋ね物の長州藩士を疑われ、徒然草を手に入れることなく逃げた。なぜ徒然草かというと師匠の吉田松陰は徒然草を読みたくても遂に入手できずに安政の大獄で死んでいった。晋作が肺結核で一生を終えるまで徒然草を読んだかどうかは不明だが・・・晋作ファンとしてはどうにも気になる、気になった・・・・・・という譚。8月3日。