●戦争とは・・・「私には一人の仲間があった。それはSというある漁業会社の重役の息子で、私と同年の、妻子のある男だったが、彼は銃後の資本家のエゴイズムに愛想をつかし(と彼はいっていた)その手先たらんよりは前線に出て一兵卒として戦うことを夢みた。彼は内地で教育中前線出動の可能性をわざと軍に影響を持つ父親に知らさず、自ら内地に残る手段を絶ち切っていた。彼の夢は前線の状況を見て破れた。彼はわが軍が愚劣に戦っていると判断し、『こんな戦場で死んじゃつまらない』と思ったという。」。この文章は「大岡昇平戦争小説集 靴の話」(集英社文庫・p117)の中の「捉まるまで」(1948年2月の「文学界」発表)にある。前線に行かなくてすむ輩どもが民意を無視して戦争法律を成立させる。法案に法案賛成者を含む親族が最前線に配備される条項も入れたらどうじゃ。なぜであろうか、戦争体験小説が読みたくなったというか、読まないと何も語れないという切迫感あり。この話は、大岡昇平(1909~1988)が昭和20年1月25日ミンドロ島南方山中において米軍の俘虜となる直前、マラリア感染による高熱と米軍包囲に死を覚悟していた時の回想。7月10日。
●岩手の矢巾町の中学2年男子学生自殺事件。「生活記録ノ―ト」に書かれた悲痛な叫び(SOS)。担任のコメントに腹が立つ。怒り心頭、薄情な碌(ろく)に字も知らないセンコウが教壇に立っていること自体が腑に落ちない。彼女の無教養の度合。「上から目先」は誤で、正は「上から目線」。ペーパー試験にとらわれ過ぎない教員採用の多様性と採用後の不断の教育が重要という事だな。教育委員会や教職員組合に迎合しない第三者による断固とした適合審査が必要だ。「目先」(教師自身の生活)の事しか考えない「上から目線」の教師なんぞは即刻退場させるシステムを構築すべし。あるコマーシャルで「若干」(じゃっかん)を「若千」(わかせん)と読んでいたのを思い出した・・・そのレベルの噺だ。7月10日。
●静止気象衛星「ひまわり8号」の始動。「ひまわり」のそもそもの命名の意味付けは「いつも地球を同じ方向から見ているという意味と、1日に1回地球を回る」からという。なるほどの納得、合点承知の助といいたいところだが、前々から腑に落ちないことがある。今日なんぞも正真正銘の曇天なのに最新鋭の「ひまわり8号」君には雲がうっすらとも見えませぬが・・・台風や余程の厚雲でないと彼にはキャッチできないのか・・・と皮肉も云いたくなる。地上からはオテントサマも青空も全く見えぬのに彼には赤外線で透視できるのであろうが・・・。問題は明瞭な雨雲だけでなく薄い雲の層も表示してもらわないと合点がいかぬのだ。ひまわり衛星画像では雨雲がないのに明瞭な曇天でちょいとでも雨の降るのが気に入らないのだ。雲の層のデジタル化だな。7月9日。
●「文化芸術懇話会」のメンバーである前都城市長。少なくとも選挙区民には説明責任もあろうが貝が蓋をしたようで雲隠れか。もう一人の県選出衆議院議員は「歴史修正主義的なナショナリズムを排除した保守を目指す」ことを掲げた勉強会「過去を学び“分厚い保守政治”を目指す若手議員の会」の共同代表世話人。前者は、百田氏出席の勉強会に同座している映像をあるテレビ局が一瞬だけ放映。その後のコメントは皆無のようで、地元のマスコミも追及なしの模様。後者は、ボヤ程度に狼煙を上げ蚊の鳴く程度にボヤいただけの尻つぼみの意気地なし。安保法案が与党の強硬姿勢で可決しそうな状況だ。民主党の不甲斐無さからして廃案は無理の相談か。維新も橋下大阪市長が首相と会談したのがいかにも胡散臭い。そうは云っても日本は民主主義国家だ。民意を無視した法案なんて仮に決まったところで無視すればよかろうし、法案が通過しても法的手段を駆使して実行性を阻止すべきだが。消費増税よりもはるかに国民投票(衆院解散)に図るべき重要問題である。なにか「ギリシャ」(よその国からの借金で公務員が飯を喰らい、年金もそれに頼っている国。国の負債は43兆円というから、それを棒引きしてくれなんぞは泥棒に然り。)の方がまともな国に見えるぞ。7月9日。
●やっとのことで先週から「翔ぶが如く」が半分越えの六巻目にはいる。文春文庫の司馬遼太郎長編物である「竜馬がゆく」(八巻)・「坂の上の雲」(八巻)・「菜の花の沖」(六巻)・「世に棲む日日」(四巻)・「功名が辻」(四巻)は読破しているから、あと五巻で完全読破となる。遅読漢としてはあとの五巻が脳細胞の労疲にローブロー的にジーンと堪える。4月の中旬に読みはじめて「10日で一巻」と気合を入れて精進節制しているもののやはりニシタチの甘美な誘惑に逸り靡く心根。小説も10巻もあれば如何に司馬遼太郎と言えども中弛みの感ありや・・・ということで摘み食いもしたいというものだ。休みの日曜日、出不精で無風流な吾輩は用無しの木偶坊であるからして、ちょいがけの買い物などの用しかない。とどのつまりは書店へ。病院の待合に並べる週刊紙と数冊の文庫本を求め、これまた褌を締め心して読み方開始。今回は松本清張の「砂の器」(二巻)。約950ページもあるので気合が要る。夜中の3時まで読んで、朝は診療の前に読んで、診療が終わっても飯を掻き込んで夜中の2時半まで読み、昼休みに読んで・・・・・・丸2日間で読破。この満足感がいいですね。元に返って、何故司馬遼太郎の長編なのかというと、人物や事件が何回も登場するため、馬鹿な親仁でもちゃんと記憶できるように配慮されているんですね。「翔ぶが如く」の六巻は、まだ西南戦争には至っていませぬが、今後が必ず面白くなるからして、清張で頭をリフレッシュして踏破せねば・・・と云いつつ摘み食いの性癖がちゃらほら。閑話休題(それはさておき)、「砂の器」には「ワンニャン譚」のタネはひとつもというか犬と猫の文字は一個も出現しませぬ・・・ちょいとガックシ。7月8日。