●小生はアルコール以外の睡眠剤を嗜まない。無理して眠ろうとしない。適度の眠気の訪れるまで待つ。無理に寝ようとすると寝付くまでの時間がもったいない。30分毎に繰り返す夜中のニュースを馬耳東風に聞き流す。そうしながら随筆なんぞを読み耽るといつの間にか睡魔が襲ってくるから嬉しい。今日の収穫がありましたね。神無月ともなれば秋の旨いものが食えるようになる。師走に入れば河豚のひとり舞台だ。北大路魯山人(1883~1959)の味蕾をして絶品と唸らせた河豚。肝臓や卵巣に神経毒のテトロドトキシンを含む。自然界ではボツリヌスに次ぐ猛毒である。魯山人先生の喫驚の舌鼓ものだから、また歌舞伎役者を呼吸麻痺で殺人せしめた代物であるからして、さぞ旨いだろうと踏んで掛かってみるが・・・果たして口に合ったか。小生の知る限りにおいては10人中10人が魯山人然として最上級の讃辞を吐きますね。魯山人先生曰「無味の味」と。そうです、興味津津で舌のビリビリするという肝が旨いのであって身は無味なんですね。寂聴先生じゃありませんが、全身麻酔の陶酔を「無の境地」と錯覚したのに類似したことで、河豚の肝毒と酒の酔いで極楽浄土へ舞い上がる幻想なのでしょう。そこで今日ついに発見しましたよ、河豚が旨くはないとした作家を。内田百閒(1889~1971)先生ですね。昭和21年発表の「御馳走帖」という本です。百閒先生が学校の先生をしていた時(陸軍士官学校か海軍機関学校か)、飛行機の会長(クラブ活動でしょうか、部員等がローマまで飛行したというから相当本格的ですが)を兼ねていたそうですが、事務の部長を兼ねた先生から河豚料理屋へ誘われたんですね。部長は「本当の味は刺身を食はないと解らない」と云い、百閒先生の河豚の感想が「私は刺身も食ひ、鍋も突つついたが、河豚は風味がないので、余りうまいと思はなかつた。別に死にさうな気持もせず、又もし死んでも大した事でもない様に思つたのは、お酒を飲んだ所為かも知れない。一緒に来た事務員はへべれけに酔つて管を巻き出した。少し河豚に興奮してゐる様でもあつた。一緒に外に出て、途中で別かれて帰つたが、後で聞くと、部長はその帰りに、かかりつけのお医者の許に寄つて食べた物をすつかり吐かして貰つたさうである。・・・」。そうそう10人中10人が河豚に「興奮」するんですね。そうかと云って往往に自腹では所望しないところをみるとやはりそれなりの値打なのでしょうか。偉大な先人の一言って覆すのに労するものですが、魯山人先生だってパリのレストランに行ってそこの味に文句を付けて持参の醤油でもって好みに合わせたという挿話のある人物ですから、どれほどの食通(グルメ)であったか疑わしいものです。好みは百人百色、人は人、自分は自分です。他人の悪口は止めましょう。でも、流石は百閒先生、河豚の味を正々堂々「無味」と評した有名人は稀です。そりゃそうと親仁の記憶では小生の生れた年の1959年に魯山人先生は亡くなられた筈。百閒先生は1889年生まれの1971年没だから魯山人先生のほうが先輩か。※百閒が「御馳走帖」を発表したのが昭和21年と云いますから随分な混乱の時代に悠長にもグルメ本を出すなんて風流人だったんですね。調べるに、陸軍士官学校ドイツ語学教授を務めたのが1916年(大正5)、海軍機関学校ドイツ語学兼務教官を嘱託されたのが1918年(大正7)のことだから、その頃の魯山人先生は齢35前で京都や金沢の素封家の食客を転々としたり古美術店を開いていましたね。魯山人先生が「美食倶楽部」を発足させ自ら包丁を握ったのが1921年(大正10)、彼の「星岡茶寮」(東京・永田町)の経営を開始したのが1925年(大正14)。想像ですが魯山人先生が河豚を「無味の味」と評した頃と百閒先生がはじめて河豚を食した時期とは重なるかもしれませんね。親仁も銀座の「久兵衛」本店にも2度ほど行きまして魯山人先生の陶器や書の作品を鑑賞しましたし、それ以外にも数百点の陶器は観てきました。ちょっとした驚きですが魯山人先生は腕利きの陶工を集めて作陶させ、彼自身はそれに絵付けや釉薬を塗って焼いていたんですね。少しは手を加えたとしても器そのものは魯山人先生の作ではないのですね。昔、魯山人先生の本を買って読んだ記憶はありますが、内容はどうも覚えていません。探してみましょう。要は、河豚の白子焼の絶品は認めますが、ああそれに唐揚も、そうそう鰭酒もそこそこ認めますが、どうもしても鉄刺(刺身)に「興奮」する人種には頸を捻ってしまいます・・・ということです。8月27日。
●北方領土問題。ロシアのロゴージン副首相が23日、メドベージェフ首相の北方領土訪問に反発する日本人に対して、ツイッターで「彼ら(日本人)が本当の男だったら伝統通りハラキリをして静かになっていただろうが、ただ騒いでいるだけだ」(朝日デジタル)とTWIT(=なじる・あざける・責める)。看過できない発言だ。歴史を簡略的に遡ると、①1885年:日露和親条約(下田条約)で択捉(エトロフ)島と得撫(ウルップ)島の間を国境線とした。②1875年:樺太・千島交換条約で樺太はロシア領、千島列島は日本領となった。これは大久保利通のロシアの南下を恐れたあまりの愚策ですね。③1905年:日露戦争のポーツマス条約で南樺太が日本に割譲され日本領となった。これは小村寿太郎の粘り強い交渉の賜物ですね。④1945年:9月20日、ソ連の一方的な千島・樺太国有化宣言。1941年4月に結んだ日ソ中立条約を無視しての国際法違反(破棄通告は1945年4月5日)。この場合の国際条約は破棄もしくは延長の手続きを経ても1年間は有効。ソ連は長崎原爆投下日から満州や南樺太、千島へ侵攻。ソ連のスターリンはアメリカを中心とした連合国に対して1944年12月から南樺太と千島の領有を要求。ルーズベルトはソ連の参戦を促した張本人でありヤルタ会談でその旨が了承された。現在、日本は1885年の下田条約時点、すなわち択捉以南の4島(択捉・国後・歯舞・色丹)を日本領土と主張・・・しているが択捉島などロシアの実効支配されている。国後、択捉とも、ロシア側の統計ではそれぞれ約7千人、色丹島にも約3千人のロシア人が居住しているという。西郷隆盛の征韓論にしても私学校の設立にしても、西郷の意見はロシアの南下を恐れての備えであったんですね。西南の役の為ではなかったのです。司馬遼太郎の「菜の花の沖」(高田屋嘉兵衛)に出てくる「ゴローニン事件」に見るように随分と前からロシアは日本占領を目論んでいた侵略国家なんですね。そんな野蛮の無法国家のナンバー3が「俺の言うことに反対するな、負け犬は黙って切腹しろ」という意の発言。日本人への侮辱も甚だしい。江戸末期も明治初期も同様な蔑み言動を受けていたのだろうな。癪に障るけしからん言動だ。※ゴローニン(1776~1831)はロシア軍人で1811年、国後島上陸中に幕吏に捕えられ、1813年高田屋嘉兵衛(1769~1827)と交換、釈放された人物。なんでか老頭児(ロートル=ゴロージン)のロゴージンとゴローニン、似てないか。※ソ連で忘れてならないのが日本人シベリア抑留。1945年8月23日、スターリンの「労働に耐える50万の日本将兵を連行せよ」で約60万の日本人が最長11年にも及ぶ極限の重労働を課せられた。死亡名簿があるだけで46300人の日本人が重労働や飢えや寒さや病気で死亡した。山口県出身の画家、香月泰男(かづき やすお・1911~1974・シベリア抑留は1945~1947)のシベリアシリーズを観たか。大盗人と抑留の強制労働に対する現ロシアの大犯罪は許し難い。8月26日。
●株安がパニックの様相。中国の成長率低下は成長率プラス5%という。失業者が現れる数字である。石炭需要が減り、電力消費量はマイナス。内陸部を衛星で観察するとトラックの往来が減り、高層ビルの建設が止まっているというからかなり深刻だ。中国政府の株価買支えや人民元の切下げなどの半禁じ手も効果薄。それに天津爆発事故が追い打ちをかけている。この天津だが「丼」だけが売りじゃない。世界4位(中国内では2位、世界トップテンに中国の港が7つという)の貿易高を誇り、巨大な湾状の渤海に位置し北京とも目と鼻の先。そこで歴史。ときは明治7年(1874年)、大久保利通主導の台湾出兵が行われると、その戦後処理のために全権弁理大臣として9月14日に清に渡航。その滞在地が天津だったんですね。明治7年10月31日、清が台湾出兵を義挙と認め、50万両の償金を支払う日清両国間互換条款・互換憑単に調印したという、台湾との小競合いというか小戦争です。大久保の出立は明治7年8月6日、新橋駅です。9月17日の北京で行われた第一回交渉の清国側代表は主席の恭親王で、影武者は西太后という人物の時代ですね。清の軍隊を牛耳っていたのは確か天津に起居していた李鴻章でしたかね。大久保は調印締結の翌日の11月1日に北京を発ち、恭親王らのすすめで天津の李鴻章を訪問したのが11月3日のことですね。それだけ天津は政治経済でも要衝なのです。トヨタ車が5千台弱も燃えたそうですが、数日で10%以上も急降下する状況ではあるますまい・・・と親仁ギャクを書いている間に株価が上昇していますね。昨夜のテレビで○○証券や○○生命の上席研究員という勝手気儘な講釈輩が「底はまだまだ、今は様子見」なんて放言していたが、今が買いでしょ! アメリカの利上げも決まったわけではないし、中国の富裕層もせいぜい一割強だろうし、BRICSの新興5カ国以外にも途上国の需要はまだまだこれからだ。※台湾出兵の表向き理由(大義)は1874年、台湾原住民の琉球島民(漁民)殺害なんだが、国内では征韓論に敗れ西下(下野)した西郷隆盛以下私学校をはじめとした全国の旧武士の不満を転化させて削ぐための出兵であった。西郷も私学校の郷士兵の参加に賛成している。大久保は当時の明治政府の実質的トップ(たしか右大臣が三条実美で左大臣が岩倉具視で大久保は内務卿でしたかね)であり、彼が50日近くも清に滞在したことは驚愕ものだ。戦利(50万両=テールは当時の約78万円。当時1円はほぼ1ドルという)を獲得することが西郷ら不満兵士(元藩士)を抑えるために最低限の任務だったのだな。※「清が台湾出兵を義挙と認めた」ことは、台湾(の生蕃人)が中国(清)の領土(属国)であることを承認したことになる。この時、清は大久保に対して琉球が清の属国であることを主張しなかった。このことが日本の領土と認めたことになったのだ。ちょっとの歴史談話でした。8月25日。
●文化の違い。内田百閒の「御馳走帖」(中公文庫)を読んでいたら「沢庵」に御茶漬の話があった。わが妻は山口の出身なので、岳父は食事のおわりに決まって茶漬をしていた。百閒先生は岡山の出身で沢庵を「かうこ」と云うのは山口でも同じ。「(お)かうこ」は「香香」か「(御)香香」と書く。宮崎の「沢庵」は「たくわん」か「たくあん」であって、大根大量生産県の処によっては「たくあん」が漬物全般の代名詞でもある。ラーメン屋で「たくあん」が供されるのに他県民は「秘密の県民SHOW」とのたまう。「沢庵の色は、黄色が黒ずんで、その上に皺があって、皺の中がよごれてゐて、全く貧乏人や乞食の食ふ物だと思つた。しかし御飯の時、最後までおかずを食べると、行儀が悪いと云つて叱られるのでお茶漬には、さう云ふ色のおかうこを、かりかり食つた。東京に出て来てから、沢庵がまるで違ふので驚いた。色は鮮やかであり、切り目には光沢があつて味も甘いから、一どきに沢山食つた。しかし段段にその色や味の正体が解つて来るにつれて、昔お梅乞食が貰つて行つた様なおかうこが食べたいと思ふ事があつた。」(pp59~60)。茶漬の起源は平安以前で、陣触れで即刻家を出る際、腹ごしらえが先だから飯櫃の冷飯に水をかけてぶっかき込んだのが始まりであるという。頼朝や義経時代の「いざ鎌倉」や戦国の長宗我部氏(江戸時代の山内一豊以後は土佐藩郷士の別名)の「一領具足」(兵農未分離の地侍)の勇よさですよ。およそ千年後にジャーが発明されたのだな。茶漬に香香と云う文化は京都が発祥か。京では昔、飯は昼に炊いたという。朝と晩の冷飯の茶漬で御供は香香。それで京都では漬物文化が発展したのだろうか。岳父の御供は「かうこ」もあったが地元の宮内庁御用達蒲鉾や佃煮でしたね。(世の中に『天皇御用達』というのはごまんとあるらしいぞ。食いきれないから誰かが御相伴にあずかっている筈)。鋤焼でも刺身でもなんでも最後には茶漬なんですね。百閒の岡山と広島を挟んでの山口とで同じやらどうやら。妻に訊いても疑問は解消されません。なぜいつも決まって最後に茶漬なのかですよ。皆さん、些細なことでも存命中に教授してもらうべきことの多いこと。古人曰く「後悔先に立たず」ですぞ。(これは東郷平八郎司令長官の参謀・秋山真之の「古人曰く『勝って兜の緒を締めよ』」の名言の模倣ですね)。8月23日。