●旭化成建材の拷問ありや否や。現場代理人は何処に幽閉されているのやら。今回の杭打ち不正不良は立派な犯罪でしょう。江戸時代の刑罰は身分の違いで異なっていたが、武士の場合、切腹、斬首、改易、役儀取上げ、蟄居、閉門、逼塞、遠慮、隠居、差控の順。現場代理人の身分は、下級武士なら与力か同心か中間か岡っ引か、はたまたその下か。彼は今、改易・役儀取上げの上、蟄居の小部屋で拷問を受けているのであろうか。今日の旭化成の会見で「現場代理人と話をしていて彼はかなりルーズな人間」だとコメント。一体「あんたは悪代官か無慈悲な捏造町奉行か」と一瞬感じましたね。少なくとも幽閉状態にあるであろう下手人の言分はどのようなものか・・・関心ありますね。上司は一切知らなかったのか、不正を承知の同罪であっても知らぬ存ぜぬなのか・・・販売元(施主)の三井はいつ顔を出してどのような説明をするのか。現場代理人を幽閉する旭化成に真相解明できるのか・・・それよりも彼一人に責任を負わせまさか「一件落着」じゃないよな。財閥と政府(政治家)と警察の強圧権力による「責任押しつけ」と「トカゲの尻尾切り」の思惑がプンプン臭うね・・・。これだけの大事件、早々に逮捕して取り調べるべきじゃないか。そう云えば明治初年、「三井の番頭さん」と西郷隆盛翁に揶揄された貪官汚吏がいましたね・・・そうそう長州の井上馨(1835~1915・井上聞多)でしたね。三井に一言、今は明治維新から148年を経過してます、財閥意識は捨てて誠実に処置しなさい。10月22日。
●旭化成社長が泣いて詫びた横浜のマンション傾斜問題。建築素人の親仁の知る限り、地盤の強固には大きく2通りあるのではないか。ひとつは今回のマンションのように堅い地盤層まで杭を打つ工法。いまひとつは基礎を面として捉え地表深くコンクリートの台形を築く・・・なんちゃってですが、我が病院は後者の工法を採ってますね。なんちゃってにわか一級建築士のつもりですがね、過去に3つの病院建設中、毎日のように現場を監督していたので行程など多少の理解はできてるつもりであります。素人の話はさておき、今回の問題は監督不行き届きというか、監督してなかったんですね。杭打ち担当者以外の専門家は現場にいなかったということでしょう。販売会社は「三井不動産レジデンシャル」、元請施行業者は「三井住友建設」、1次下請業者は「日立ハイテクノロジ―ズ」、2次下請業者は「旭化成建材」。これじゃ多分に融資は三井住友銀行じゃないか。だれもがブランドを重視するが、財閥が儲けをしっかり分捕って、残りを下請で分配する構図は大手に限ったことではないでしょう。そうそう、旭化成と云えばへーベルハウス(軽量気泡コンクリート)ではなかったかな。鬼怒川決壊(茨城県常総市)で流されなかった家は確かへーベルでしたね(最近の週刊誌で見た記憶あり)、それに淡路神戸大震災でもへーベルが最も頑丈だったと評判でしたよね。住民には何とも悔いのあることですが(失敬)・・・企業側は(杭は浅かったが)根の深い話になりそうですね。日本の三大財閥の1社と堂堂たる2上場企業がこういう様(ざま)じゃいかん。まずはしっかりと原因究明だ。名立たる日本の看板企業が「三バン」なんぞ下賤の戯語のように軽んじていただろうが・・・・・・。「選挙の三バン」は「ジバン(地盤)、カンバン(看板)、カバン(鞄)」。(説明不要でしょうが)施主等の看板と鞄が不動であっても・・・マンションの地盤がしっかりしてないとイカンばん。10月21日。
●⑧区長が「胆」を羆退治の報酬と申し出たところ、山岡銀四郎は「クマの胆は、クマを仕とめた者がもらう」のが仕来りであると言って怒りだし、酔いがまわりにまわっていつもの豪傑酒乱に豹変し、「村中の金をここへ出せ」と主張した。六線沢の住人は皆で合計50円を集め銀四郎に渡した。「銃を肩にかけ、焼酎の入った一升瓶をつかんで土間におりた」銀四郎はそれらをもって住処の鬼鹿村へ帰って行った。⑨銀四郎はその後も羆撃ちを続け、サイパン島守備隊玉砕の頃、脳溢血を病み半身不随となった。「終戦直後、銀四郎は東方の峰に必ず羆が通過する時期なので、そこに自分を連れて行って欲しいと言った。息子は手のふるえも甚しい老父を山中に放置することは危険なので拒んだが、銀四郎の執拗な求めに屈し、十日分の食糧と銃を携え、銀四郎に肩を貸して目的の尾根に着き、かれを置いて山をくだった。十日後、かれが尾根に赴くと、二頭の羆が五十メートルほどへだたった個所に射殺されて横たわっていた。羆は、いずれも心臓部と頭部を射貫かれていた。・・・・・・銀四郎にとってそれが最後の猟になり、一カ月後に八十三歳で死亡したという。」。今、この現場一帯は観光地になっている。福岡でのツキノワグマの目撃情報。羆の脅威はその比ではありませぬ。われわれ南国民にその悍しさを分れというのは到底無理。苫前(六線沢)に旅してみたいものだ。完。10月19日。
●⑤この羆は「穴持たず」で体格に見合う穴が見つからずに冬眠出来ない。自然、雄の7~8歳以上の羆だ。降雪期を迎えても雪中に餌を求めて彷徨し、気性が荒く、餌の無いことから人間を襲う。⑥羆は最初の家で2人を殺した。1人の男子の死体は食われず、母親の死体は山の奥まで運ばれ、頭骸骨と脚の一部、髪の毛しか残存してなかった。翌日の通夜にも同じ家を襲い、直後隣家の胎児を含む5人を殺した。ここでも女性だけを食した。この後、銀四郎がこの村に入るまでの間、開拓の六線沢の15戸全戸を虱潰しに物色した形跡があったのを銀四郎は一軒一軒検分して確認した。既に住民の女子供は他の地域へ逃避していたため人的被害はなかった。一番下(下流)の家に「鋭い歯でかみくだかれたらしく四分の一ほどが欠けていた」カボチャ大の石を銀四郎が発見した。松浦家の妻が湯たんぽにしていた石であった。そのほか、どの家でも「腰巻や女の枕がずたずたに切り裂かれていた」。銀四郎は「女の味を知ったクマは、女の匂いのする物を手当たり次第にあさるものです」と語った。⑦肉は食用に供され、羆の毛皮と胆嚢は商人に売る。特に「乾燥した胆嚢は同じ重さの金塊に等しい価格で取引される」。つづく。10月19日。
●羆(ひぐま)騒動。とくに北海道では釣り人のおにぎりをかっぱらったというので猟師に射殺されたという(10月19日、北海道新聞)。と云うYahooニュースを見ていたら「7人犠牲ヒグマ事件から100年で法要 苫前町」の見出し。「留萌管内苫前町でヒグマに襲われ妊婦や子どもを含む開拓民7人が死亡した『三毛別(さんけべつ)ヒグマ事件』から今年12月で100年となるのを前に、地元住民が10月15日、事件現場で追悼法要を行った。事件は故吉村昭さんの小説『羆嵐(くまあらし)』の題材にもなった。苫前町史によると、1915年12月9日午前、体重340キロのヒグマが当時の苫前村三毛別の民家を襲い、女性と男児を殺害。翌日の2人の通夜も襲撃し、直後に別の家で胎児を含む5人を殺害、3人に重傷を負わせた。ヒグマは14日に射殺された。」。最近書店で物色して読んだ「羆嵐」。「わんにゃん譚」のネタ探しのつもりで読んだのだが、ついに犬は一頭も登場せず(3回「犬が吠えた」の程度でネタには遠く及ばず。少なくとも銀四郎は羆狩りに犬を使用せず)。「羆嵐」は「クマを仕とめた後には強い風が吹き荒れるという」から。吉村昭の「羆嵐」によれば①仕留められた羆は雄、頭の頂から足先まで九尺(2.7m)、前肢蹠幅(せきふく)六寸六分(二十センチ)、後肢蹠長一尺(三十センチ)で、体重は百二貫(三八三キロ)。毛皮は長さ十二尺(3.6m)、幅九尺(2.7m)。②体ひとつと銃1挺で仕留めたのは山岡銀四郎。彼は近隣の鬼鹿という村に住処のある羆猟師。酒癖が悪い。周囲から疎まれていたが、その羆を仕留めるのは彼しかいなかった。現に警察や銃を所有する住民等総勢約200名が羆退治に関わった。軍隊出動も要請されたが現地に来る前に銀四郎が仕留めた。銀四郎は二発射ち、初弾は心臓部を射抜き、二弾は頭部を貫通。③解体後、人肉を食った羆の肉は住人総出で食すというアイヌの仕来りにより鍋で供された。この儀式を経なければ被害者の埋葬ができないという。つづく。10月18日。