●「集団的自衛権行使容認に伴う憲法9条の解釈変更を巡り、内閣法制局の横畠裕介長官が法律などの定める与党幹部との協議の政官接触記録を残さなかった問題」(毎日新聞2月16日)。記録を残すことは法律で決められているのを、法律の番人が放棄する大問題。かつて「文明人と野蛮人を区別する方法は、ひとつしかない。」と貝塚茂樹氏が言ったという。「野蛮人はひいじいさんのことを何も知らない。名前も知らない。しかし、文明人の中国人は、ひいじいさんどころか、かなり上まで名前を知っている。つまり、野蛮人は死んでしまった人のことは記録しない。文明人はすべて記録する。これだけがちがいだ。貝塚さんはそうおっしゃって、さらに付け加えました。『日本人は野蛮人やな』と。つまり、これまでこれまで公文書館を持っていなかったということですね。」(司馬遼太郎全講演[3]pp87~88)。だれと面談して、だれが何を語り、だれらが9条の解釈変更を主張したのか、全く判然としません。イギリスでは、30年も経つと外交文書はすべて公開されるという。今回の問題は後世の歴史検証に到底耐えかねる由々しきことです。こんなことを許しているような国民じゃ、やはり野蛮人を脱してないということですぞ。2月18日。
●さて、家康の最期についてである。大坂の陣が片付いた翌年(1616年)の正月21日朝、家康は鷹野のため駿府城を出て藤枝に近い田中まで出かけた。御供に数日前から京都より来ていた呉服屋の茶屋四郎次郎というものが(彼は京の情勢を探索し家康に伝える密偵のような存在であった)「ちかごろ京ではめずらしい料理がはやっおります」と言って「てんぷら」を紹介した。てんぷらを食うべく家康は榊原大内記に支度を命じ、用意された食材で実際の料理をしたのは茶屋四郎次郎であった。このころの大名や富商は、茶道で料理をまなぶためにひととおりの庖丁の芸は身につけていた・・・という。用意されたてんぷらタネは大鯛二枚に甘鯛三枚だった。この時の油は(胡麻油でなく)榧油で、薬味は蒜であったのではと・・・。この深更二時ころに腹痛を訴える。その後は自身亡きあとの委細についての生前処理(秀忠や側近に指示)をして、4月17日午前10時に逝去。死因は胃癌と言われる。以上は、司馬遼太郎「覇王の家・下」pp325~364。ちなみに信長の持病は高血圧、秀吉は認知症ではなかったかと考えられている・・・らしい。※榧は碁盤の榧であり、その実を搾ったのが榧油。今も高級食材。2月16日。
●司馬さんはその「峠」の中で、継之助と同じ古賀塾で継之助を慕う16歳の鈴木佐吉という少年に対して、「志の高さ低さによって、男子の価値がきまる。このこと、いまさらおれがいうまでもあるまい。ただおれがいわねばならぬのは」「志ほど、世に溶けやすくこわれやすくくだけやすいものはないということだ」「それだけに、婦人ほど男子の志を溶かすものはない。おそろしいのは、志の薄弱な市井の遊冶郎のみが婦人におぼれるかといえば、そうではない。英雄豪傑のほうがかえって溺れる」「多感だからだ」「一種言うべからざるの情において鉄石の志をも溶かされてしまう。わかったか」・・・と継之助に語らせ・・・説諭させているのやら・・・継之助自身に言い聞かせているのやら・・・だ。が、ケンスケ先生も司馬さんの小説を読んでから議員になられたほうがよかったのではなかろうか。そうすれば少なくともご婦人のご懐妊中は吉原へ出向かれていたはずです。ケンスケ先生の天下国家に対する「志」が今更ながらですが聞いてみたいような気がしないでもありませんが・・・単に「先生になってモテタイ」なんて「志」じゃこの世も末ということでしょう。2月15日。
●イクメン・ケンスケ先生は念願かなって存分の育児ができそうでなによりでした・・・司馬さんが桂小五郎こと木戸孝允の三倍の偉人と褒めた河井継之助(1827~1868)も越後長岡から江戸に出てきた時は吉原の常連だったらしい。司馬さんの「峠」によると、吉原細見という書物を読み耽り、◎○△×の印を朱筆で入れたらしい。×は馬鹿で醜くてとるにたらぬ女、△は手取りがいいというだけの女、○は美しくて利口な女、◎はさらに人間としてみごとに出来上がっている女・・・という。江戸の遊冶郎(ゆやろう)なら誰でも知っていた吉原細見。もしやしてケンスケ先生は永田町細見なるものの作成を目論んでいたのではなかろうか。それにしても国会内で同僚議員や出入の女性をナンパするなんぞは・・・なんともふてぶてしい国家を愚弄した犯罪的下衆の極みだ。つづく。2月15日。
●12日は「菜の花忌」であった。20年前のその日、司馬遼太郎は鬼籍に入った。先週上京し、日本橋の丸善に行った。人の多さにもひったまげたが、流石は当代屈指のマンモス書店。ありましたね、司馬遼太郎の「没後20年」ブース。司馬さんは20年前の2月10日深夜に吐血して倒れ、国立大阪病院(現:国立病院機構大阪医療センター)に入院し手術を受けたが、2日後の2月12日午後8時50分、腹部大動脈瘤破裂のため死去した。72歳であった。「黄色」の菜の花を好んだことから「菜の花忌」。2010年に他界した女優の高峰秀子さん(映画「二十四の瞳」の女先生役)は生前、司馬さんとの親交厚く、司馬さんの誕生日には菜の花(もしくは蘭など黄色の花)を贈っていたという。殊更に最近、国内外で大事件や政治スキャンダルなど多くの騒ぎ事が頻発しているが、司馬さんが存命なら、どんなにか鋭く皆の心臓にぐさりと刺さるコメントをくれただろうと思う毎日であります。つづく。2月14日。