●かつて松野頼三という政治家がいた。維新の党代表の頼久氏の父上である。「政界の寝技師」と評された父親譲りの根気強い根回しは「優良DNAの垂直伝播」ということになろうか。週刊誌予測では、今夏の参院選での維新の党の獲得議席は1議席とも。消滅の危機にあるから新党結成と野党結集に対する想いはまさに決死の血眼の連日。前大阪市長の橋下氏がつくった党。何の世界でも他人が生んだ組織を乗っ取り我がものにする輩がいる・・・個人的にはどうも好きになれない。しかし、不幸ながら世界の国家や政治家は宗教や特別な主義を利用してきた。儒教しかりキリスト教しかりイスラム教しかり、日本の神道しかりだ。中国や朝鮮は儒教で民を馴らし、帝政ロシアはロシア正教で、旧ソ連はマルクス・レーニン主義で国家を維持した。今の日本も創価学会を支持母体とする公明党の存在が国政を左右している。日本共産党が野党側でその役目を果たす可能性がでてきた。日本共産党の党是は「社会主義・共産主義の社会」の実現にある。与党の弛みが引き締まる気配もないから・・・野党共闘の動きには注目が必要だ。2月26日。
●いやいや小村寿太郎は150センチどころか143cmもなかったらしい。4尺7寸というから約142.3cm。ここで「1尺」とは、明治後の尺貫法で1メートルの33分の10と定義された。「1尺」は約30.3cmで10寸。一寸法師は約3.03cm。あのブルースリーは2寸突きで日本の空手大家を数メートル飛ばした。寸止めという離れ技もあるから随分と尺貫法には世話になっている。反対に坂本龍馬は大漢であった。丈は5尺8寸というから175.7cm。姉の乙女も龍馬と同じ背丈の大女子(おなご)であった。小村寿太郎に関しては吉村昭の「ポーツマスの旗」に詳しい。龍馬は司馬さんの「龍馬がゆく」、最近では山本一力の「龍馬奔る土佐の勇」(2015)がある。1936年(昭和11年・80年前)のきょうは「二・二六事件」の日。国家社会主義者、北一輝(1883~1937)が軍人に送った手紙が発見されたときのうの毎日新聞にあった。北はこの事件に連座して死刑。2月26日。
●日本人の1日3食は室町時代という。室町時代に今の日本文化の基本が発生し進歩したのだ。茶道しかり、結婚儀礼しかりだ。それまでは朝晩の2食で、昼は乾飯などをお八つ的に齧っていたのだそうだ。ところで1石は一人の人間が1年間に食する(玄)米の量(容積)というから、只今ダイエット断行中の親仁としては改めてカロリー計算に駆り立てられる。白米1合は150gで、炊飯すると2.2倍の重さ(330g)になる。いわゆるご飯はグラム162kcalであるから、白米1合は534kcalである。日に3合(茶碗約6杯)のカロリーは1602kcal。室町や江戸の人々の体重はいったい何キロだったのだろうか。明治初期の日本人の平均身長は155cmだったとか。小村寿太郎は150cmだったが、明治初年、アメリカのハーヴァード大学法学部に留学した時、学生だけでなく、大学界隈の町の人までが彼を尊敬し、後年、ポーツマスに立った彼はロシアやアメリカ人と比べて決して見劣りしなかったというから郷土人として誇らしい。龍馬は5尺7寸とかで約175cmの大男であった。それらは兎も角、仮に50kgとした場合の体重当たり摂取カロリーは32kcalであり、暇な高級武士は別として、重労働の庶民の体格維持は困難を極める量である。一汁三菜なら兎も角、味噌汁に香の物だけでは死んでしまう。信長が新築の安土城に家康を招いての馳走ならいざ知らずだが、にわかに昔の先祖の食い物に興味が湧いてきた。つづく。2月25日。
●年貢は遠く平安時代中期から始った租税の一。江戸時代、生産された米は稲のままで庄屋に持ち込まれ、そこで脱穀、籾摺りされて玄米となり幕府に納められた。「石」以外に「俵」という単位がある。一俵は60キログラムであるから、2.5俵が一石である。年貢は玄米で納められたが、籾一俵(60kg)は籾摺り後、半減して30kgとなる。年貢はあくまでも玄米の容積である。が、玄米にしてしまうと味が落ちるので籾の状態で納めた場合(藩)もあるとやら・・・。なんでも歴史小説には必須の「石」知識ですぞ。2月22日。
●一升は約1.8リットルで一〇合ですね。一合は一〇勺、一勺は一〇才。そして大名(藩)の年貢高は「石」で表しますね。一〇升が一斗で、一〇斗が「一石」です。米一石の重さは約一五〇キログラム。一石の米を得るには一反弱の耕地(土地)が必要でしたから、一町では一〇石強の収穫がありました。そこで、面積の単位ですが、一町は一〇反、一反は一〇畝、一畝は三〇歩、一歩は一坪です。一畝は一アール(一〇〇平方メートル)、一反は一〇〇〇平方メートル、一町は一ヘクタール(一〇〇平方四方)です。突然ですが、吉田松陰の実家の杉家の石高はさていくらだったでしょうか。わずか、二六石だったんですね。松下村塾の生徒(門下生)であった高杉晋作の家(萩家上官)が一五〇石、桂小五郎(木戸孝允)の家(医者)も同じく一五〇石。越後長岡藩(牧野家)の幕末の家老・河井継之助の家が一〇〇石でした。ちなみに長岡藩は七万四千石のお家です。※「1石は下位単位では10斗にあたり、同じく100升、1,000合に相当する。日本では、1食に米1合、1日3合がおおむね成人一人の消費量とされているので、1石は成人1人が1年間に消費する量にほぼ等しいと見なされ、示準として換算されてきた(1000合/1日3合で333日分)。面積を表す日本の単位である反は、元は米1石の収穫が上げられる田の面積として定義されたものであった。」(Wikipediaより)。つづく。2月22日。