●「清正公」こと加藤清正について。数年前に熊本に行ったおり、乗り合わせたタクシーの運転手が市民の9割は加藤清正のことを「清正」と呼び捨てにはしません、「せいしょこう」か「きよまさこう」と敬称すると話していた。その加藤清正は幼いころ、秀吉の小姓でした。秀吉と清正の母親同士が従姉妹同士との説があります。未亡人となった清正の母親が秀吉の母親(のちの大政所)を頼って大名になったばかりの秀吉の居る長浜へ清正少年を連れて行ったのでしょう。その長浜と琵琶湖を隔てた対岸に坂本という町があるんですが、その坂本の近くが穴太(あのう)という村になります。比叡山延暦寺の御膝元ですので、また近辺には大寺もたくさんあるので、それらの修復や石垣の修理などをしていたんですね。清正公は、その工事現場に出かけてはその技術を習得していたことが想像されます。藤堂高虎も秀吉の小姓でしたから同じように覚えたのでしょう。名古屋城で「清正公石曳きの像」というのを見ましたが朝鮮で虎退治をしただけあって勇猛な恰好をしていました。むろん清正公は名古屋城でも石垣づくりを担当したのですが、その折仕事場には幔幕を張ってその手法を見せないようにしていたそうです。ところが、ある大名の築いた石垣が一夜の雨で崩壊したそうで、その大名は清正公に教えを請いにきたそうです。清正公は親切に教授したそうで、その手の込みようは表面に見える石垣の裏でその大名の10倍の手間を掛け念入りの作業をしていたそうです。それが「牛蒡積み」その他ということでしょうか。清正公が肥後の国に君臨していたのは1587(天正15)~1611(慶長16)年という間ですが、その間の2回の朝鮮出兵がありますから、実質はその半分だと言われています。その間、熊本城築城をはじめ水路や水田開拓など、今で言うところの建築土木工事である数多くの普請や作事を成し遂げています。仙台の伊達政宗公のようにその功績によって肥後が豊かになったのであり、今も敬称で呼ばれる所以であります。つづく。5月4日。
●熊本が震源の地震の歴史を調べると少なくないんですね。不幸にも今回の強さは、前震がM6.5、本震がM7.3と過去最大でしたが・・・。元和5年(1619)3月17日(推定M6.0~6.2)。寛永2年(1625)6月17日(同5.0~6.0)。享保8年(1723)11月22日(同6.5)。以下、明治22年7月28日(同6.3)、明治27年8月8日(同6.3)、明治28年8月27日(同6.3)、明治40年3月10日(同5.4)、昭和43年2月21(同6.1)、昭和50年1月23日(同6.1)。熊本での今回のような大地震は阪神淡路大震災のように千年か二千年の間隔で起こるようなことを専門家は言っているようですが、果たして真相はどうなのでしょうか。今回学んだことに、このクラスの地震での本震はマグニチュードが7以上であること、前震がM6であっても安心してはならないことが挙げられる。というが、厳密には隣り合わせの二つの活断層のヅレであったようだ。東日本大震災もそうであったが、気象庁によれば「想定外」との見解のようである。東日本大震災は同レベルの三陸沖地震は散発しており、東北大学や北大の先生方が「地を掘って」実証した直後の災禍であった。吉村昭の「三陸海岸大津波」(新潮文庫)にもその激しさが書かれてある。同レベルの阪神淡路大震災が地球の地殻を2メートル以上もヅラしたように熊本地震も地表が2メートル以上ヅレたようだ。地震予知が不可能なら「想定外」なんて開き直らず謙虚に無能を認め、自ら全国の地ベタを掘り返して断層とヅレの実態を調査すべきではなかろうか。机上の学問と事後講釈はもうまっぴら御免である。5月1日。