●しつこいながら、「朝貢」についてもう少し。魏・呉・蜀の三国時代の「魏志倭人伝」には遅れるが、卑弥呼の時代よりも遡る日本の弥生時代(倭国)のことが、中国の二十四史の一の「後漢書」東夷伝に書かれる。それには、紀元57年、倭の奴(な)の国王が後漢の光武帝に使いを送り、印綬を授けられ、107年も倭国王が生口(せいこう・奴隷または捕虜)を献上した・・・・・・との記録がある。要は、「三国志」よりも前の時代から倭国は中国の天子に朝貢していたということです。突然の閑話休題ですが、それにしてもトランプ大統領のアメリカ、見捨てたもんじゃありません。「7カ国の国民の入国を一時的に禁止するドナルド・トランプ氏の大統領令を差し止めたシアトル連邦地裁の仮処分決定について、サンフランシスコ連邦高裁は、効力の即時停止を求めた米司法省の請求を退け」、「米政府倫理局はホワイトハウスに書簡を送り、トランプ大統領の娘イバンカさんが 手掛けるファッションブランドの商品購入を国民に呼びかけたコンウェー大統領顧問は 倫理規定に違反した疑いがあるため、懲戒処分を検討するよう勧告」し、ロシアとの電話密談の、当時民間人であったフリン氏を更迭。大統領と言えども北朝鮮や中国などのような絶対恐怖政権にはならないと云うことで、少しは安心ですな。日本よりも法整備が行き届いており、日本よりもやはり民主的かもな。それほどにまだまだ日本は閉鎖的じゃな。2月15日。
●ついでながら、朝貢は「古代日本における、蝦夷・隼人の朝廷への貢納や、朝廷が新羅・渤海に要求した関係も朝貢と表現される」(日本歴史大辞典)とありますから、「隼人」は歴とした(?)外国だったのであります。「隼人(はやと)とは、古代日本において、薩摩・大隅・日向(現在の鹿児島県・宮崎県)に居住した人々。古く熊襲(くまそ)と呼ばれた人々と同じといわれるが、『熊襲』という言葉は日本書紀の日本武尊物語などの伝説的記録に現れるのに対し、『隼人』は平安時代初頭までの歴史記録に多数現れる。熊襲が反抗的に描かれるのに対し、隼人は仁徳紀には、天皇や王子の近習であったと早くから記されている。服属後もしばしば朝廷に対し反乱を起こし、大隅隼人などは大隅国設置(713年)後にも反乱を起こしたが、隼人の反乱と呼ばれる大規模な反乱が征隼人将軍大伴旅人によって征討(721年)された後には完全に服従した。8世紀初め、現在の鹿児島県一帯への移住民は総人口の7分の1に相当する9千人前後と推定され、この推定に従うなら、(総人口6万3千人-9千人前後で)5万4千人前後が在地人=隼人と推定される。」(以上Wikipedia「隼人」を所どころ抜粋)。さて、鹿児島と宮崎の古代以前の先住民は一体どこからやってきたのでしょうか。ポリネシアやらミクロネシアやらオーストラリア方面やら、ハワイやら、はたまたオーストロネシア(語族)やら。「805年の隼人の朝貢停止により、南九州の居住民を隼人と呼ぶことはなくなった。」(日本歴史大辞典)とあります。わたしのような県北人はどうなんでしょうかね・・・・・・遺伝子的に「隼人」であってほしいですね。2月14日。
●そもそも日本人の誕生はいつごろなのか。①地球上に人類が出現したのが約500万年前。②世界各地で猿人→原人→旧人→新人と進化。③約20万年前にアフリカに現れたホモ・サピエンスが現代人の起源。④人類の世界拡散に伴い、アジア大陸と地続きだった日本列島にもナウマン象などを追って流入。⑤日本の最も古い遺跡の大半は3万5千~4万年前に始まる後期旧石器時代のもの。⑥したがって、縄文人は3万年以上前に朝鮮半島や台湾、樺太などのルートで日本へ移住し、混血した。ところがどっこい、倭国や邪馬台国、浄御原令が施行されて現れた「日本」の初期時代、「日本」国内でも北海道と沖縄はもちろん、東北中部から北の地域と、われわれ南九州は「日本」国ではなかったんですね。東北は「蝦夷」(えみし)、南九州は「隼人」(はやと)と云う「異種族」が居住していると考えられていたのです。つづく。2月14日。
●記録に残る日本からの朝貢は「魏」(三国の一、220~265)の国へである。Wikipediaによれば、「景初二年(238年)12月、卑弥呼が初めて難升米らを魏に派遣。魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられた。正始元年(240年)、帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ、詔書、印綬を奉じて倭王に拝受させた。正始四年(243年)12月、倭王は大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を復遣使として魏に派遣、掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた。」とある。卑弥呼を女王とする邪馬台国は中国の魏の朝貢国であったのだ。当時は日本や天皇と云う名詞はなかった。浄御原令(きよみはらりょう)が施行された689年に初めて「日本」が出現する。対外的には、大宝律令が制定された701年の翌年、中国大陸に到着した遣唐使の粟田真人(あわたのまひと)が当時の周の皇帝・則天武后(624~705)に対して、「日本」国の使者であることを表明したのが最初とされる。当時、倭国は中国の朝貢国であって、いわば属国として見下していたわけで、則天武后は「日本」国の使者に驚愕激怒したのだろうか。属国の倭国が自ら「日本」という国号を宣言し、名実ともに独立したというか、中華と対等な関係の国家になったということでしょう。しかるに聖徳太子(574~622、用明天皇の皇子、厩戸皇子=うまやどのみこ、小野妹子を隋に派遣して国交開く。隋=581~619)が「日出づるところ」から「日の没する国」へ、として送った国書に隋帝は激怒したのですが、実際は「日出づるところ」に続く「天子」に怒ったというのが本当のようですが・・・・・・どうやら。聖徳太子の生前に「日本」国の存在はありえなかったと云うことです。日本の国号が誕生した689年の前時代、中国の朝貢国であった倭国は、確かに中国に大いなる恩恵を受けていたのでしょう。※卑弥呼:239年、魏に使いして「親魏倭王」の称号と金印紫綬とを賜った(三省堂スーパー大辞林)。つづく。2月13日。
●やはり言ってきましたね・・・・・・中華思想の根幹をなす「朝貢」。昨日の中国の国営新華社通信は「安倍総理『朝貢の旅』の損得」という評論を発表。ではこの「朝貢」とは何ぞや。古代中国が周辺の小国家や諸侯に対して君臣関係を前提として貢物の差出や儀礼(挨拶)を要求したこと。古代中国とは秦(BC221~BC206)・漢(前漢=BC202~AC8・後漢=25~220)の時代である。(古代日本は大和朝廷の時代から奈良・平安時代までをさす)。貢物の差し出しは19世紀になって欧米列強によって排除され、条約関係に変わった。中華思想とは、中国大陸を制した朝廷が自らのことを「中国」、「中華」と呼び、天子を中心に内臣・外臣・朝貢国の序列をつけ、「中華」を支配する民族(漢人とは限らない)の外にある「化外の地」を蔑視する思想である。また、中華の四方に居住し、朝廷に帰順しない周辺民族を「四夷」あるいは「夷狄」と総称。東夷・北狄・西戎・南蛮のうち、わが日本国は「東夷」のひとつ。安倍さんのお世辞・おべっかがトランプ・米大統領への「朝貢」としたのだ。なんとも民族主義丸出しの暗愚国営放送の時代錯誤的発想だな。つづく。2月13日。