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今週の親仁ギャグ・2017年6月11日(日)~6月17日(土)

ここだけの話ですが、先日、親仁にも加計学園獣医学部からの勧誘がきました。25年も前に日本の獣医大学に見切りを付けた者として、即座に断りましたが・・・・・・わたしの存在を世間が覚えてくれていただけで栄誉なことです。その翌日、田舎の御袋にその旨報告すると「行くなよ」と一言一喝、念を押されました。加計を見る世間の目の厳しさであります。昨夜のテレビ番組で、ある政治アナリストが「教授が集まらない」ということを喋っていました。親仁如きに天から話が降ってくるのですから、これまでの一連の騒動世間体大学の将来性を考え、なかには辞退者も出てるやに知れません。大学の将来への憂慮と云うのは、満足し得る研究が出来ないということは勿論ですが、教官の質や数の問題から十分な教育もできない、他大学並の国家試験合格率で獣医師を世に出せるかという・・・・・・自問自答でしょうか。今治市のキャンパスは突貫工事中ですが、加計学園岡山理科大学獣医学部の正式決定は8月であり、不認可を含めて、まだまだスキャンダルや紆余曲折があるでしょう。つづく。6月17日。

●「共謀罪」法を強行採決して国会延長を無くし、同時に加計問題追及を躱(かわ)すほどにこの腹心は無二の友なんだろうな。特区の標榜であった「ライフサイエンス」が今度は、「ペットの診療費が高すぎる」・「獣医師が増えペットの動物病院が増加すれば診療費も安くなる」へ摩り替えられ・・・・・・詭弁にもならない方便転換。今や信用できないのは政治家であり、官庁であり、そして警察組織であります。共謀法の最初の犠牲者が賛成票を投じた議員であれば最高に良いのだが・・・・・・誰彼複数人がこの共謀法の犠牲にならないとこの悪法は潰されない。日本人の低能さは想像力の無さと過去の教訓をあっさり忘れ去ることだ。公明党イコール創価学会は戦前、時の権力の弾圧を受けながら、今は忘却の彼方ということだ。初代会長・牧口常三郎(1871~1944)は1943年、のちの2代会長の戸田城聖(1900~1958)とともに治安維持法違反並びに神道不敬罪の容疑で投獄され、1944年に東京拘置所内の病監で栄養失調と老衰のため死去した・・・・・・のでありますぞ。警察権力を最も憎まなければならぬ公明党(=創価学会)は今や「不公正非公明」で国家権力を牛耳る組織になり下がったのであります。今後、共謀罪回避グッズが開発・登場するでしょうから、いち早く取り寄せないとおちおち「親仁ギャグ」も書いてられません。6月15日。

●今年もクマによる死亡ニュースが流れはじめました・・・・・・①羆に出くわした時(襲われそうで命の危険を感じた時)には「・・・かれは、アイヌの猟師の教えを忠実に守り、とっさに体につけていた衣類をぬぎ捨てた。羆は、匂いのしみこんだ衣類にとりつき、そのすきにかれは逃げた。アイヌの猟師は、逃げる時、絶対に樹木にのぼってはならぬ、とも忠告した。羆は、一の枝に足をかければ梢の近くまでのぼり、結局は樹木から落とされて食い殺されるという。」(吉村昭著「海馬(トド)動物小説集」(新潮文庫・平成28年八刷改版)・p194)。②「アイヌの猟師が口にした止め足という羆の習性が、胸に刻みつけられていた。羆は、猟師が追ってくるのに気づくと、足をとめ、後向きになったまま足跡を踏んでもどる。そして、横の熊笹の中などに跳んで身を伏せ、近づいてきた猟師を襲うという。弥一郎は、足跡を追う時、羆が止め足を使ってはいないかとあたりの気配をうかがいながら歩を進めた。」(同pp196~197)。とくに「止め足」の羆の賢さに驚きでした。これまた「実録小説」・「歴史小説」の大家であり、加えて「生物小説」の大家でもある吉村昭を信じましょう。羆(エゾヒグマ)やツキノワグマに運悪く遭遇したら、衣服を脱ぎ捨ててフルチン(フリチン)になりなさい・・・・・・と云うことです。クマ鈴(とくに低い音の鈴)は要をなさないらしいですよ。6月13日。

ついでながら吉村昭の小説「銃を置く」で羆の恐ろしさを書いています。羆は北海道だけ、ツキノワグマは本州と四国に棲息しています。幸い九州にはいませんので、山菜取りに行こうも蝮と猪に気を付けるぐらいでしょう・・・・・・それに道に迷っては死ぬこともありますが。この小説は1915年(大正4年12月)に実際に起こった羆による7名の死亡事件を題材にしたものです。吉村昭の小説「羆嵐」と同じ事件を扱ったものです。旧地名は北海道苫前郡苫前村の「三毛別事件」であり、現在は観光地のひとつのようです。この7名を殺した羆を単独(ひとりで)、射止めたのが山本兵吉(1858~1950)であり、彼の生涯の羆捕獲数は300頭と言います。その彼に羆撃ちのコツを教えてもらったのが「銃を置く」(「羆嵐」の後日談)の主人公・弥一郎こと大川春義(1909~1985)です。大川も1977年(昭和52)、100頭の羆を仕留め(単独では76頭)引退しました。きょうの本題ですが、「銃を置く」で羆の事故をふせぐための羆の習性について書いてありますの参考になります。つづく。6月13日。

思い立ったが吉日。きのうの10日は夕方6時から車を運転して田舎へ帰りました。何を隠そう、が無性に見たくなりなったのであります。前日に電話してその活動を知っていました。親父によれば50匹は翔んでいるとのことでしたが、なんのその、昨夜は数百匹が乱舞していました。数百は大袈裟か?、少なくとも200匹はいたでしょう。愚妻は千匹と言い張るのですが・・・・・・親父が2週間前に白内障を手術したばかりであり、親仁は老眼に近視に乱視ですから・・・・・・野鳥の会の人にカウントしてもらうしかないのでしょうか・・・・・・点滅なので断られるでしょうが・・・・・・。子供の頃はもっと多かったのは確かですが、これだけ沢山の蛍光を観賞できて行った甲斐がありました。小降りでしたが、月夜でなかったのでかえって綺麗でした。夜の8時から雨が強くなった10時頃まで乱舞していました。毎夜観察している兄貴によれば「今夜が最高に多い」と言ってました。は目の生き生きとしている若いうちに見ておきましょう。今日は朝の診療に間に合うように帰り着きました。6月11日。

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