●笹川陽平(故 良一氏の三男)氏らとの会食での4ショット。左から小泉、森、安倍、麻生各氏の破顔爆笑の写真だが・・・・・・何がそんなに笑わせたのか・・・少し異様な光景である。加計学園の審査が延長(認可保留)され・・・森友の国会審議で一辺倒答弁の財務官僚が国税庁長官に、昭恵夫人の御付き人がイタリア大使館へ・・・それぞれ栄転した。記者の質問攻め回避のため恒例の就任記者会見をせず・・・口封じの海外逃亡人事・・・である。安倍ちゃんはだんまりの、内閣支持率の回復(ほとぼり冷め)待ちというところだろう。独裁の終焉か・・・・・・日本人は他国民に比べ独裁者に嫌悪を抱く国民性がある。ロシア帝国や清帝国のような絶対的独裁者を好まない。内閣なら内閣で合議制を基本として、特に(極)右翼的な政策が採りあげられないように知恵を絞ってきた。独裁者はついにはその座から排除される運命にあった。本能寺の変の織田信長、太閤秀吉、井伊直弼・・・しかりだ。さあ、現在の日本人の独裁者に対する嗜好は如何に・・・である。笹川別荘のおみや(手土産)はなんだったのでしょうか。8月26日。
●私の現在の持ち合わせの記憶のままに、信長、晋作、竜馬にゾッコンな理由をひとつずつ挙げます。①信長は生涯、家康を御しました。家康は正室と長男を信長に殺された(切腹)にもかかわらず、姉川の戦い(1570年)や長篠の戦(1575年)をはじめ多くの戦(いくさ)で信長を助けました。家康は6歳の時に人質として今川に向う途次、田原藩に強奪され信長の父、信秀に売られました。家康はそれからの2年間、織田家の菩提寺で生活しました。8歳年上の信長と交流があったのです。その2年でふたりに如何様な絆が生まれたのでしょうか。狸の家康は、信長の器量を幼少ながら感じ入ったのでしょう。②晋作は1865年1月12日(元治元年12月15日)、功山寺にて奇兵隊を挙兵。そして何といっても、第二次長州征伐(四境戦争)では1866年6月12日、丙寅丸を操り、周防大島沖の夜襲で幕府艦隊を撃退。これにより長州は幕府軍を一掃し、その弱体を世にしらしめ、一気に倒幕機運が増した。明治に活躍した長州の偉人・・・木戸孝允、山県有朋、伊藤博文、井上馨らは皆、晋作の子分格である。③竜馬は何といっても薩長連合ですな。8月18日の政変、禁門の変で犬猿の仲にあった薩長が手を結んだのは、竜馬一等の事績。1866年1月21日に盟約され、その2日後の23日に寺田屋で襲われた。手負いで薩摩藩邸に逃げ込み、その後は霧島へ新婚旅行。その年の小倉口ノ戦に参加している。薩長同盟なくば、西郷どんは幕府に加勢した訳で、四境戦争での長州の勝ち目はなかった。・・・・・・さっと記憶のままに書いてみました。間違っていたらすみません。これがゾッコンの根拠であります。つづく。8月24日。
●やはりありますね。歴男が好きな歴史上の偉人。ネットのトップを開くと、8位~12位が武田信玄 ・豊臣秀吉・石田三成・真田幸村・久坂玄瑞、4位から7位が徳川家康・徳川慶喜・沖田総司・高杉晋作、ベスト3は、3位が坂本龍馬 、2位が吉田松陰、1位が織田信長・・・・・・なんであります。このような投票式アンケートでは、大河ドラマなどに影響されるようです。つづく。8月24日。
●司馬遼太郎の「街道をゆく・1」(新装版 湖西のみち、甲州街道、長州路ほか・朝日文庫)は週刊朝日に連載され、その期間は1971年1月1日~7月9日である。「街道をゆく」は「濃尾参州記・43」(1996年2月の司馬さん急逝による未完)までの「歴史の旅シリーズ」である。25年に渡る気の遠くなるような連載であるが、未完であるからして全国を網羅していない。残念ながら歴史の色の薄い宮崎ゆかりの地名や人物の登場はないにひとしい。司馬さんは関東大震災の1923年の生まれなので47歳でこのシリーズを書き始めたのであろう。実際、246ページに「私は、四十七歳である。政府になんとか陳情してこれ以上齢をとらないようにできないものだろうか」・・・・・・とある。とまれ、「街道をゆく」はわたしにとって取って置きの旅のガイドブックである。せめてあと10年は生きてもらってもっと全国を行脚してもらいたかった。次の旅はすでに勉強済みであるからして、今は次々回の行き先探しということだ。何事も同じで、いくら本を読んでも実際に経験したり見聞しないと本質が掴めません。旅も歴史人が行き来した「街道」を辿らないと、彼らの生きた時代背景や生き様を嗅ぎ付けることはできません。つづく。8月22日。
●居酒屋への足が数日遠のくと、「また甲子園に行っとったんですか」の挨拶代わり。私はもうそんなに若くありません・・・・・・往年の甲子園熱狂時代は炎天下、4試合を一日中ずっとバックネット裏で観戦し(今の甲子園は数年前に改修され銀屋根が拡大されていますから、午後3時くらいには日陰になります)・・・・・・その夜は大酒。延岡学園が決勝に進んだ年には甲子園を2度往復し、2度で4泊5日の頑張りぶりでした。甲子園に出向いた回数は数えていませんが、春夏合わせて15回は下らないと思います。なにせチケットを買うための並ぶ時間が長すぎて、それだけで熱中症になりますから・・・・・・もう少し時が回って、通しのチケットが買える時間的余裕が出現したら再挑戦しましょう・・・・・・2週間の大阪長期滞在・・・・・・ということで・・・・・・今月の旅は、岳父の13回忌法要を兼ねての山口墓巡りでした。赤間神宮→功山寺→唐戸市場→東行庵→晋作・竜馬・西郷・大久保・木戸・司馬遼太郎も宿し維新の湯にも浸かった松田屋→松下村塾→松陰墓地・誕生地→伊藤博文・吉田稔丸生誕地→高杉晋作誕生地→大村益次郎墓地・・・・・・写真を交えて紹介しましょう。「親仁ギャグ」の更新がないにも関わらず沢山のアクセス、改めて有難うございます。つづく。8月22日。
- →とあり、生涯二十一回の大事を行う。写真は、長州人もうひとりの瓜実顔の大村益次郎の墓。階位は贈従三位とありますから、格は松陰先生よりも上。場所は山口市鋳銭司。防府と小郡の
- ほとんどが出席。写真は護国山団子岩の松陰先生の直ぐの上段に眠る晋作の墓。死後13日の4月29日には、遺族により萩で仏式の葬儀が行われ「東行暢夫之墓」と刻まれた墓が建てられ、遺髪(
- →この墓には遺髪が眠る。松陰神社の御神体は硯という。右の写真は、何故か松陰先生の上段にある晋作の墓。胎髪と臍帯が眠るという。本墓は前述の東行庵。松陰先生の本墓は東京の松陰
- 写真は松下村塾4天王の筆頭、久坂玄瑞の墓。松陰の妹、文と結婚したが、1864年7月の蛤御門(禁門)の変を指導し、受傷後自刃。位階は正4位だから松陰、晋作、龍馬らと同格。贈は死後の授与
- →写真の功山寺である。下関市長府川端にあり、長府駅からはタクシーがお勧め。長州人は瓜実顔という。吉田松陰しかり、岸晋介しかりだ。写真の晋作も馬に劣らぬまったくのその顔面で