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今週の親仁ギャグ・2017年9月3日(日)~9月9日(土)

●「黒革の手帖」・・・・・「手帖」なる金ゆすりの「金蔓リスト」は3つあるんです。一つ目が原口元子が銀行員時代に蒐集した「医者の架空名義口座」、二つ目が「産婦人科医の隠し預金」、三つ目が医大専門予備校の「裏口入学」のリストです。そのリストをもとに文字通り、体を張るようにして悪漢から金を脅し取り、人の嫉むような銀座名うてのクラブママを体現しようという・・・サスペンスなんであります。面白いのは、銀座表通りの情報通に牧野という獣医が出現します。「毎晩のようにこの界隈をさまよっているだけに銀座のバアの情報に彼は通じていた。酒とホモの道楽に身をもち崩した牧野という獣医だった。・・・・・・女形(おやま)のように内股で足を運ぶ獣医といっしょに歩くのはちょっと当惑だったが、ふと、なんでも知っているこの牧野に、波子のその後がわかっているなら聞いてみたいなと思った。」(「黒革の手帖・下」・新潮文庫・pp100~101)。最期はこの波子にすべてしてやられるのですが。とまれ、物語の転換点でこの獣医が幾度も登場し、新たな展開を創造していくのであります。最後は、あまりにも話が凝り過ぎている感が否めないですね。「黒革の手帖」は昭和53年11月から55年2月まで週刊新潮に連載されました。今が昭和92年ですから、かれこれ40年前の銀座でしょう。完読して当時の銀座界隈のバアやクラブの裏事情を少しでも垣間見た気分でした。今度、なけなしの小遣を叩いて、一世一代の銀座クラブとでも行ってみますか。9月8日。

●美人を厭う男性はいるだろうが・・・少なくとも会話をせずに見てる分には邪魔じゃないでしょう。しかし余程の印象じゃなくちゃ、オジサンは名前までは覚えられません。女優さんをコマーシャルで何度見ても名前を知らない(覚えようとしない)のが日常茶飯事であります。松嶋菜々子に松たか子に、あともう一人・・・・・誰だったか、それさえも忘れましたが・・・・・・顔と名前が一致しないのです。数年前、銀座の鮨屋さんで「大奥」の鷲尾真知子さんが隣に坐っていました。ミーハーの親仁はツーショットでレンズにおさめてもらいましたが・・・・・・真に失礼ながら名前までは知りませんでした。お淑やかで謙虚な、文字通りの淑女でした。今放送中の「黒革の手帖」をたまたま視ました。それも途中からの1回きりですが・・・。松本清張の純な推理小説の「ゼロの焦点」、「点と線」、「砂の器」などは読みましたが、そのほかはときにサスペンス劇場を視るくらいです。ついでながら「日本の黒い霧・上下」、「私説・日本合戦譚」、「軍師の境遇」、それに「西郷札」などの歴史(推理)小説も読み応え十分ですが・・・。サスペンスの2時間の時間的長さは、何故か苦痛です。それならと、どうしてもニシタチを選択するのであります。2時間もテレビに集中するくらいなら、本屋に行って文庫本を買い、読み切るほうがなんぼも楽しめます。「黒革の手帖」の主演の武井咲さんは、この番組を視て、やっと顔と名前が一致した女優のひとりですが、一曲でも当てた歌い手同様、当たり役と云うのはその後の芸能世界を変えるものであります。つづく。9月6日。

ラーメン屋か中華屋さんに行ってビールに餃子、それにラーメンをオーダーします。同じように和食屋さんでビールと単品のとんかつ、それに饂飩をオーダーします。たいていの店は、先ずビールを出します。これは必定です。次いでビールを数口、口に運んだころに早急で餃子(とんかつ)が届きます。そしてお客の食の進捗を見計らってラーメン(饂飩)を提供します。ラーメンと饂飩にビールはどうみても味蕾の受容体に合いません。最近の店は、気配りというか、スタッフ教育がなってません。江戸の名を馳せた蕎麦屋さんの暖簾を潜って勉強して来なさい。ビールに板わさ、酒徳利に蕎麦味噌なんかをつまみにしてい、アルコールの胃腸興奮作用にエンジンがかかった頃合に、丁度そのタイミングで蕎麦が運ばれてきます。「それならそれで注文の時に言えよ・・・」なんて、そりゃ野暮と言うもんです。そんな店は、仮にラーメン、饂飩が後から出て来ても美味いものに出くわしたことのないのが、必定です。9月5日。

下関での龍馬の動向・・・・・・1865年(慶応元)の閏5月1日、龍馬は筑前黒崎から下関入し、5日に白石正一郎邸で土佐藩の土方楠左衛門(久元)と会談し、中岡慎太郎の薩摩長州和解策に賛同、翌6日には長府藩士時田庄輔の仲介で来関中の桂小五郎(木戸孝允)と会見し、薩長和解に努める。高杉晋作の功山寺決起(1864年=元治元の12月15日)から6日後の21日、薩摩藩名義による武器の購入を斡旋していた龍馬は、中岡慎太郎とともに来関するはずの西郷隆盛が下関に立ち寄らずに京都へ直行したのに困惑。龍馬案に同意していた桂小五郎は憤慨する。即、京へ上る。龍馬は1865年(慶應元)9月末に鹿児島に帰る西郷と共に兵庫から船に乗り、10月3日に上関からに山口に入った。その時、大久保が西郷に宛てた「非義の勅命は勅命にあらず」という有名な手紙の写しを託され、長州藩に届けたのも龍馬である・・・という。寺田屋遭難(事件)(1866年1月)の直後、龍馬は新婚旅行を兼ね、お龍を伴い鹿児島へ。そして6月15日に長崎から桜島丸を操り下関に到着。17日開戦の第二次征長戦の小倉口の戦いにて、指揮官である海軍総督高杉晋作に加勢。1867年(慶応3)1月ごろからはお龍とともに伊藤家に寄宿。龍馬はこの部屋を自然(じねん)堂と名付け、下関での本拠地とする。がしかし、龍馬はここから京都へ旅立ち、同年11月には京都の近江屋で暗殺された。お龍はその知らせをこの自然堂で受け取った・・・とされる。寺田屋事件:「慶応2年1月23日(1866年3月9日)、京での薩長同盟の会談を斡旋した直後に薩摩人として宿泊していた坂本龍馬を伏見奉行の林肥後守忠交の捕り方が捕縛ないしは暗殺しようとした事件。「寺田屋遭難」とも言う。」(Wikipedia転記)。
つづく。9月4日。

●萩から長府へ本藩を遷(うつ)す謀で過激な攘夷論派や保守派(晋作は「俗論派」と呼び、奇兵隊を中心とする自らを「正義派」と称した。俗論派は幕府恭順であり、晋作の正義派は討幕思想)に命を狙われた晋作だが、それ以外にも「下関開港」の考えをしていた。龍馬も、当時の下関が国内でも外国との交易でも航路の要所であることをよく理解していた・・・・・・この点でも龍馬と晋作の胸中は意見が一致していたのであろう。その高杉晋作が龍馬に上海から持ち帰りのピストルを贈ったのが1866年(慶応二)1月と言われています。その時、晋作は龍馬に詩も送っているそうですから、ふたりのただならぬ交友の深さが読み取れます。俗論派:長州征討(第一次は1864年7月=文久四=元治元で無抗戦降伏。第二次は1866年6月=慶応二で長州軍が大勝利)に対する幕府への恭順。つづく。9月4日。

●龍馬と高杉晋作の親交はかなり深淵なものであった・・・・・・という譚。龍馬が最初に下関を訪れたのが1862年(文久2)であり、2度目は1865年(慶応元)の閏5月1日に筑前黒崎から下関入り。その後の京都の近江屋で暗殺されるまで、龍馬は多くの月日を下関で過ごしたという。その間は1865年から1867年の3年間である。龍馬が多くの人に送った書簡が残されているが、その中には長州人も少なくない。少なくないどころか極めて多い。その筆頭が印藤聿(1831~1911)で、彼は主に龍馬と長府藩を繋ぐパイプ役のような役割を担っており、三吉慎蔵(1831~1901)の『日記妙録』によれば「我が藩士の龍馬に交わるは印藤聿を最初とす」とある。龍馬の護衛役を務めた三吉慎蔵はこの印藤の紹介による。龍馬が薩長同盟を締結させた直後の寺田屋事件の折、龍馬はピストルで応戦し、ボディガードの三吉慎蔵は得意の鑓で奮戦し、双方とも逃亡に成功した・・・・・・「寺田屋事件」はあまりにも有名である。そして革命に必要なのは資金であるが、下関にはそのパトロンも存在していた。白石正一郎(1812~1880・廻船問屋)と伊藤助太夫(いとうすけだゆう・1830~1872・長府藩おかかえ本陣で大年寄)は双方とも豪商。親交厚い(熱い)晋作は、本藩を萩から(支藩である)長府に替えようと考えていたため過激攘夷・俗論両派に命を狙われてたが、そのテロリスト、晋作に望みを託して資金援助を惜しまなかったのもふたりである。晋作(奇兵隊)は主に白石正一郎に、龍馬(薩長同盟)は伊藤助太夫の援助を受けた。つづく。9月3日。

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