●昭和の香淳皇后の母親は、12代薩摩藩主公爵島津忠義の七女俔子(ちかこ)であり、今上天皇はこの島津の血を気にしている。先般亡くなった太田元沖縄県知事との面会でその意中を表しているからだ。江戸時代、島津は沖縄はじめ南方の島嶼からはなはだ搾取したことによる。今回の高麗神社訪問は、「桓武天皇の母・高野新笠の出自について『続日本紀』延暦8年12月28日条に、『皇太后姓は和氏、諱は新笠、贈正一位乙継の女(むすめ)なり。母は贈正一位大枝朝臣真妹なり。后の先は百済武寧王の子純陁太子より出ず。・・・皇太后曰く、其れ百済の遠祖都慕王は河伯の女日精に感じて生めるところなり、皇太后は即ち其の後なり。』(Wikipedia)とある。先の大戦、今の日本と朝鮮半島との関係を危惧してのことでしょう。ところで湖西の譚ですが、新羅神社はそのままですが、白髭も新羅のことだという説もあるそうです。そこで高麗について・・・・・・司馬さんは、全国にある「小松」が、周防大島の漁港小松が高麗津であったように、湖西の小松もそうではないか・・・と想像しています。地名が半島との切って切れない深いつながりの歴史を暗示しているということです。9月22日。
●湖西の具体的な市町村名は、近年の合併による市町村名変更もあって(もとより他県人には漠然としすぎて理解不能だが)煩雑すぎる。かつては県名でもある滋賀郡があったと言うから、西湖は大津市を中心にした滋賀県の要衝の地であったのか。大津市の新羅神社、大津市のすぐ北には石垣築(石工)の穴太衆で有名な穴太(あのう・安土城や彦根城などの築城に寄与)、西の比叡山、その北の坂本(明智光秀が信長の命で坂本城を築城)、堅田、琵琶湖大橋、比良山、北小松、白髪神社、鴨川、安曇川(高島市)、青柳、それから西に折れて朽木村(現高島市)。ざっとこの範囲を湖西と呼ぶのであろうか(多分に間違っていますので確認して下さい)。朽木街道は1570年の元亀元年4月、信長の「越前朝倉攻め」の折、義弟(妹のお市の方の婿殿)の浅井に裏切られ命辛々の退路としたコースです。俗に云う「鯖街道」です。司馬さんによれば、このかつての滋賀郡を古くは「楽浪(さざなみ)の滋賀」と呼んでいたそうで、朝鮮半島にも楽浪という地があるそうです。ここらは古墳の宝庫で、その全てが朝鮮式だそうです。要は上代(奈良時代)、この地は渡来人によって開拓され一大勢力を成していたということです。比叡山をひらいて天台宗の始祖になった最澄もこの滋賀郡の渡来人の村の出身だそうです。もっと言えば(間違っているかもしれませんが)トヨタも高島屋も伊藤忠商事も東レも・・・・・・湖西に限りませんが、その創業者は滋賀県(近江)の出身であります。かの有名な「売り手よし、買い手よし、世間よし」の「三方よし」は近江商人の商売訓であります。明仁今上天皇の高麗神社訪問の意義を皆で考えなくてはなりません。つづく。9月21日。
●司馬遼太郎の「街道をゆく」の「週刊朝日」連載は1971年1月からはじまった。司馬さんの48歳のときでそれから25年間、死の直前まで続いた。43巻の「濃尾参州記」が遺作である。その最初の紀行文はどこから出発したのか。それは「湖西のみち」である。湖西は琵琶湖の西の意。朝日文庫第1巻の20ページで司馬さんは「日本人の血液の六割以上は朝鮮半島をつたって来たのではかいか」と書いている。昨日、明仁天皇は埼玉の高麗神社を私的訪問した。これに対して、「21日付の韓国主要各紙は、天皇、皇后両陛下が20日、古代朝鮮半島にあった高句麗からの渡来人を祭った埼玉県日高市の高麗神社を参拝されたことについて、『私的な旅行の一環だが、歴代日王(天皇)で初めて』と写真付きで詳しく報じた。中央日報は、天皇陛下が2001年の会見で『桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています』と述べたことなどを紹介。『韓国の歴史と文化に関心を示してきた』と伝えた。」(Yahooニュース)。つづく。9月21日。
●吉村昭の名誉のために、氏の臨終際の行動が極端に死を恐れてのものではないことを言わねばなりません。2006年、手術などで入退院を繰り返していた氏の7月18日の日記に、「死はこんなにあっさり訪れてくるものなのか。急速に死が近づいてくるのがよくわかる。ありがたいことだ。但し書斎に残してきた短編『死顔』に加筆しないのが気がかり」とある。(吉村昭「死顔」・新潮文庫・平成25年11月三刷p147・津村節子「遺作について-後書きに代えて」)。死に様は人さまざまだろうが、死を静かに受け入れる吉村昭の心情は、参考にしたい良い往生際である。それにしてもメキシコの直下型地震の映像は関東大震災を見るようで恐ろしい。「米地質調査所(USGS)によると、地震の規模はマグニチュード(M)7.1。震源は首都メキシコシティから約120キロ南のプエブラ州アテンシンゴの近くで、深さ約51キロ。プエブラ州とモレロス州で大きな被害が出ており、メキシコシティなどで複数の建物が倒れた。複数個所で高速道路や橋も崩れた」(BBC NEWS JAPAN)。9月21日。
●1867年当時、鹿児島から下関まで船で一体どのくらいの時間を要したのだろうか。「この寺田屋での遭難後、傷の療養を兼ねて妻お龍とともに鹿児島の温泉地を巡るなど、国事を離れた数か月を過ごした龍馬は、六月十五日に、長州藩のために購入した桜島丸(長州藩では乙丑丸と改名)で長崎を出航し、十六日に下関に到着。翌十七日に戦端が開かれた第二次征長戦小倉口の戦いに加勢。海軍総督高杉晋作の指揮する小倉藩領門司・田野浦攻撃への海渡戦を援護。」と、「図説坂本龍馬・小椋克己/土居晴夫監修・戎光祥出版・p149」にありますから、2日程か、もしかしたら1日で鹿児島から下関へ渡航できたかもしれません。下関から山口へは1日とはかからなかったでしょう。1867年11月13日(旧暦)に鹿児島を船で立ち、山口での会見を終え、三田尻(現防府市)港を発して大坂に着いたのが20日。鹿児島→下関→山口→三田尻、そして大坂・京都。三田尻から大坂までも長くて2日だろうか。そうすると下関には11月14日か15日に着き、三田尻を出たのが18日か19日。西郷さんは11月14日もしくは15日から11月18日もしくは19日まで山口県内に滞在した計算になります。長くて6日間、短くて4日間です。龍馬が近江屋で暗殺された11月15日には少なくとも下関か山口には居たのでしょう。つづく。9月20日。
●坂本龍馬は、天保6年11月15日(新暦・1836年1月3日)に生まれ、慶応3年11月15日(1867年12月10日)に近江屋で暗殺されました。旧暦では生まれと死んだ日が同じなんです。では西郷さんはそのころどんな仕事をしていたのか・・・・・・Wikipediaによりますと、「大河密勅を持ち帰った西郷は、桂久武らの協力で藩論をまとめ、11月13日、藩主・島津忠義を奉じ、兵約3,000名を率いて鹿児島を発した。途中で長州と出兵時期を調整し、三田尻を発して、20日に大坂、23日に京都に着いた。」と書かれてます。この月日は旧暦です。西郷さんは松田屋の「維新の三傑 西郷木戸大久保會見所」において倒幕の密議を行ったのはいつなのか。つづく。9月20日。
●西郷(せご)どんの初回放送日は2018年1月7日。原作林真理子、脚本中園ミホ。改めて幕末に明治維新を復習しなおさなければ居酒屋談義に花を咲かせられません。先の山口の旅もその一環です。いろいろと読み漁っているうち、龍馬が近江屋で京都見回組に暗殺された時、西郷さんはどこで何をしていたのだろう・・・・・・と思っていたのですが、どうやら山口湯田の松田屋の維新風呂に浸かっていたかもしれない・・・・・・という考えに至りました・・・・・・というより、その証拠を見出しました。慶応2年1月21日(1866年3月7日)、小松帯刀邸(京都市上京区)で締結された薩長同盟(薩長盟約、薩長連合)は薩摩藩と長州藩の政治的、軍事的同盟です。その2日後の慶応2年1月23日(1866年3月9日)、坂本龍馬を伏見奉行の林肥後守忠交の捕り方が坂本龍馬を捕縛または暗殺しようとした事件が「寺田屋事件(遭難)」です。倒幕のため薩長他が連合して始まった戊辰戦争は鳥羽・伏見の戦いで幕が開きました。明治元年/慶応4年1月3日~6日(1868年1月27日~30日)のことです。つづく。9月20日。
●医師や獣医師の時間外労働。「最近の若者は・・・」とはブラックの禁句のようですが、今から30年前までのわれわれが二十代の時代は、研修医制度もなく、臨床の勉強したければ大学院に進学するか、研究生の授業料を払って大学病院に席を置かせて貰うかでした。開業医も住み込みがあったり、まるで板場さんの丁稚か見習い(修業)のさまでした。時代も変われば変わるもので、今や深夜まで手術があれば「労働基準法違反」と唱え、きつい言葉で叱咤すればパワハラで訴える・・・なんて始末であるようです。現実は、新卒で1年しても2年が経ってもろくに採血もできなければ留置も入れられない・・・ひどいと20年以上の経験者がそのようなお粗末な技術ですから・・・犬猫には甚だ迷惑なものです。採血ができなければ当然、静脈注射は失敗です。麻酔をするにも気管内挿管ができない、むろん新卒では猫の去勢もしきれませんし、避妊手術なんて危なくてとんでもない・・・のが標準の新米獣医師です。それを高々の給料を払って一人前に育てているのが最近の動物病院事情であります。集中治療を要する動物で、「今夜は泊まり込みで診ます」なんて新米は希少価値そのものです。新卒1年目にして、残業が辛いだの、休みが少ないだの、体力が続かないだの、怒鳴られるのが辛いだの・・・病院と名の付くところ、そんなに楽勝な仕事場ではありません・・・と云うことです。少なくとも採血や留置が一人前になってから文句を宣いなさいと云うことです。体力も能力、うたれ強いのも能力、忍耐も能力、調査力も能力、器用なのも能力・・・です。社会は学力だけでは乗り切れません。新卒、研修医、勤務医の皆さん、自身の能力を知るのも能力です。新米の時こそ自身の能力の限界を知りうる絶好の機会です。月100時間を重荷と思うか否か、将来の糧とするか、これも能力です。限界を知ることでそれ以上の無理をしてはいけません。限界を知り、降りかかる負荷が大きいなら、きっぱり獣医界に見切りをつけるか、終生楽な居場所を見つけて勤務医に徹することを勧めます・・・間違っても借金をして開業するなんて考えに及ばないことです。オジサン獣医の戯言でした。つづく。9月18日。
●ついでながら、吉村昭の死にざまは壮絶であり、現代風の腹切りかもしれない。平成17年1月に舌癌の手術。同18年2月に取り残された舌癌と新たに発見の膵臓癌の全摘手術をし、要した時間は8時間。78歳の老人作家には少々過酷であった。術後の転移はなかったが、なにせ膵臓の全摘が響いた。毎日4度の血糖値測定とインスリンの注射。体と精神の衰弱はスピーディーであった。そして最後の日が来た。病院から自宅に帰った吉村は安堵の満足げであり、その日の朝、看病の妻に「ビール」と言って吸呑みで一口飲み、次いで「コーヒー」と言って口を潤した。これが妻の聞いた最後の言葉という。それからその夜、彼は点滴を自ら外し、さらに食道カテーテルを引き抜いた。娘が聴きとめた最後に微かに発した言葉は、「もう死ぬ」であった。2006年7月31日2時38分、干潮の未明であった。(吉村昭「死顔」・新潮文庫・平成25年11月三刷pp143~149・津村節子「遺作について-後書きに代えて」を参考)。その妻の後書きには吉村昭の遺書についても載せてある(pp143~144)。「吉村は手術の前に克明な遺書を書き、延命治療は望まない。自分の死は三日間伏せ、遺体はすぐに骨にするように。葬式は私と長男長女一家のみの家族葬で、親戚にも顔を見せぬよう。電話は、ただいま取り込んでいるので、と拒って貰って応対せぬこと。弔電お悔やみの手紙を下さった方には失礼していちいち返事を書かぬこと。そして、原稿用紙二枚に、弔花御弔問ノ儀ハ故人ノ遺志二ヨリ御辞退申シ上ゲマス 吉村家 と筆で書き、門と裏木戸に貼るようにと言い遺して逝った。香奠はかねがねいただかぬ話をしていた。人さまに御迷惑をかけぬよう、また私に忙しい思いをさせまいという配慮からであった。」。ついでのついでながら、明治天皇崩御で殉死した乃木希典は、先ずは妻を殺めて、それから自分の腹を儀式に則って裂き、軍服のボタンをかけなおして服装を整え、最後に喉を刺したという。つづく。9月18日。
●私は吉村昭(1927~2006)も好きだ。第一回司馬遼太郎賞を辞退したというから変わり者の硬骨の士である。小池都知事が9月1日、都知事恒例の「関東大震災朝鮮人虐殺事件」被害者への追悼文送付を取りやめた。これに関して9月7日の毎日新聞が写真付きで吉村昭著の「関東大震災」を引用していた。「大震災の起こった日の夜七時頃、横浜市本牧町附近で、『朝鮮人放火す』という声がいずこからともなくきざした。・・・流言は、三つのコースをたどって東京市内に激浪の走るように流れ込んだ。・・・虐殺事件は、各町々で結成された一般民衆による組織によっておこなわれた。かれらは、日本刀、銃、竹槍(やり)、棍棒(ぼう)等を所持し、朝鮮人を探し出すことに狂奔し、朝鮮人と認めると容赦なくこれを殺害し、傷つけた。・・・日本人が異常な精神状態におちいっていた。」。妻で作家の津村節子氏は、記者の取材に、「特定の歴史観や政治思想を持たず『政治と宗教に関わるな』と嫌っていた」と応えている。安倍首相にしてしかり、「歴史認識は歴史家に委ねよ」・・・・・・なんて言ってますが、その歴史家が右から左までのさまざまで、真実を語るどころか、それらを否定したり捻じ曲げるのですから、やはり政治家自身が勉強するしかないでしょう。ちゃんとした歴史的資料は少なくないのですから。何もかもを選挙演説風に創作と歪曲でぶちまけるようじゃ、隣国との対話も平和も産めぬでしょうが。つづく。9月18日。
●え、マジですか。「安倍総理大臣は、解散という大きな賭けに出ます。臨時国会の召集は今月28日に予定されていますが、安倍総理はこの臨時国会の冒頭で衆議院を解散する方針を固めました。臨時国会冒頭に解散した場合、投開票日は来月22日、または29日が有力です。国会記者会館から報告です。(テレビ朝日系・Yahooニュース)」。北朝鮮の核ミサイル攻勢でのストレス発散か、加計問題集中砲火からの逃避か・・・・・・①内閣支持率の改善、②離脱議員に揺れる民進党、③なんとなく頼りないヤメ検弁護士の若狭氏率いる都民ファーストの準備不足・・・・・・①国会が召集され加計問題や北朝鮮への質疑に窮すれば支持率低下は必至、②離党者も落ち着き、山尾志桜里氏のほとぼりが冷め、前原体制が整えば、③独裁者的匂いを醸し出してきた小池百合子氏は、果たして国のリーダーに相応しい人格者なのか・・・・・・それにしても安倍ちゃんの賭けは、もしかしたら総理の座を捨てることになるであろうに。まともに国民への説明ができない宰相であり、不利と見えるや逃げ回り、税金を使い法を犯してでも友達を優遇する国民軽視の政治家であり、中国をはじめ隣国とのパイプを爪の先ほども築こうとしない歴代総理最悪の外交センスゼロの持ち主・・・・・・であります。他党のいざこざが去り準備万端整うのを待ってやって正正堂堂と戦いを挑みなさい・・・・・・ということでしょう。自己保身の姑息なやり方は国民受けしませんぞ。9月17日。