●野口英世の譚。英世の母の名はシカという。「まずシカが生れた翌年、曾祖父の清太郎が死に、ついで祖父の岩吉がどこともなく奉公に出たまま帰らず、そのさなかに、今度は母のみさがシカを置いて家出する。しかもこれを追うように父の善之助まで四歳のシカを見捨てて家を去ってしまった。産れてから三年のあいだに、シカは曾祖父、祖父、父、母と四人の肉親を失うという悲劇にあい、うらぶれた家に祖母と二人だけ置き去りにされたのである。」(渡辺淳一著「遠き落日・上」pp46~47)。英世の祖母のみさも、母のシカも、それぞれ善之助と佐代助と云う名の婿養子を取っている家系である。その婿養子が酒好きで百姓を嫌い野良仕事をしなかったのが「赤貧洗うがごとし」のこれ以上ない極貧生活となった所以である。家計がまさに一身にふりかかったシカは、「相変わらず日中は田を耕し、夜は湖畔に出て蝦をすくい、明方早く売りに出るという生活を続けていた。当時の野口家は、田の仕事だけでは日銭が入らず、生活していけなかったのである。その日は四月の末で、春の遅い猪苗代のあたりも眠くなるような陽気に包まれていた。終日、田を打ち、疲れはてたシカは日暮とともに一旦家へ戻ると、大鍋に水を入れて囲炉裏の鉤にかけてから、汁に入れる菜を採るため外に出た。シカが家の方角から、異様な泣き声をきいたのは、それから十数分ほど経ってからだった。その声は生温かく暮れかけた春の宵を引き裂いた。」(同p67)。英世は明治9年(1876)生まれ。西南戦争の前年である。この火傷事件は明治11年、英世が1歳半のときのことである。赤貧とこの火傷が英世のハングリー精神とエキセントリックな性格を生み「世界の野口」にしたのだが、実際の一生は伝記のような綺麗ごとではなかった。つづく。1月5日。