●広島市の原爆ドームと広島平和記念資料館の訪問には少なからずの躊躇と勇気が必要です。テレビなどでの映像は小さい時から「これでもか」というほど何百回も目に焼き付けられました。原爆キノコ雲に爛れあがった前身の大火傷、白血病患者や皮膚癌、顔面の容貌を大きく変えたケロイド・・・・・・などなど目を覆いたくなるあのシーンです。その躊躇を振り切っての今回の広島訪問。この年齢になって初訪問かなんて自責の念もありながら。がしかし旅は楽しいものでなけりゃつまらないのが当然。今回の愉楽スポットは備中高松城ですね。あの豊臣秀吉の中国大返し(1582年の本能寺の変の直後)の城址です。それに敵将の清水宗治を水攻めで自害に追い込んだ場所です。その水攻めの地形がどんなものであるか、実際に見てみないと納得がいかなかったのであります。先々月は秀吉の実質的な天下獲得の小田原城攻め(1590年)の現地を実見しました。そうです、兵糧攻めの譚であります。秀吉の偉さの一つは敵味方の兵の死(犠牲)を最小限に考えた戦術を立てたことです。つづく。1月19日。
●今月の旅は、(1日目)大阪伊丹空港→高速バスで姫路駅→姫路城→(新幹線)岡山駅→(レンタカー)備中高松城→後楽園(レンタカー返車)→(新幹線)広島市泊でお好み焼食す→(2日目)広島(鯉)城→小西養鯉場見学→原爆ドーム→原爆死没者慰霊碑→広島原爆死没者追悼平和祈念館→広島平和記念資料館→(山陽本線→宮島フェリー)宮島→(山陽線岩国駅からバスで)錦帯橋→(路線バス)新岩国駅→(新幹線)博多駅→(中洲泊)太田和彦百名山「寺田屋」で飲食→(3日目)天神・中洲探検→宮崎空港→近所の居酒屋で反省会・・・・・・いつもの2泊3日の弾丸旅でした。とくに広島は初めての訪問でした。戦争と核兵器についていろいろと考えが深まる旅でした。これからしばらくの間、私が発見した新たな知見を紹介しますぞ。乞うご期待下され。つづく。1月19日。
●「 此の親にして此の子あり」。母シカは10歳にして天涯孤独同然となり、女子供ひとりで野口家を守り、世界の英世を産み育てた。英世が渡米して12年目にシカが英世に宛てた手紙。以下にどうぞ。英世はこの手紙を見るまで母親のシカが文字を書けることを知らなかったと云う。英世が渡米してからシカは努力していたのだ。
おまイの ○ しせにわ ○ みなたまけました ○ わたく
しもよろこんでをりまする ○ なかた
のかんのんさまに ○ さまにねん ○ よこもりを ○ い
たしました ○ べん京なぼでも ○ きりかない
○ いぼし ○ ほわこまりをりますか ○ おまい
か ○ きたならば ○ もしわけかてきま
しよ ○ はるになるト ○ みなほかいドに
○ いてしまいます ○ わたしも ○ こころ
ぼそくありまする ○ ドかはやく
きてくだされ ○ かねを ○ もろた ○ こトた
れにもきかせません ○ それをきかせるト
みなのまれて ○ しまいます ○ はやくき
てくたされ ○ はやくきてくたされ
はやくきくたされ ○ はやくきて
くたされ ○
いしよのたのみて ○ ありまする
にしさむいてわ ○ おかみひかしさむ
いてわおかみ ○ しております ○ き
たさむいてわおかみおります ○
みなみたむいてわおかんておりま
する ○ ついたちにわしをたちをし
ております ○ ゐ少さまに ○ついた
ちにわおかんてもろております
る○なにおわすれても ○ これわす
れません ○ さしんおみるト ○ いただいております
る ○ はやくきてくたされ ○ いつくるトおせて
くたされ ○ これのへんちちまちてをり
まする ○ ねてもねむられません
1月15日。
●野口英世の譚。アメリカでの研究業績で世界的に名を馳せた英世。ロックフェラー時代の給与は当時の金で年俸5千ドルという破格の厚遇。しかし預金もせずに浪費の連続。レストランに行けば、メニューを見ることもなく、全ての料理を注文したと云う。それが今の千円紙幣に刷られた人物である。造幣局も英世の浪費癖を知ってのことだろうが、金は使うもの、湯水(英世)のように使いまくって下さい、とのメッセージと受け止めましょう。ところで、英世の出生があと20年遅かったなら彼の生涯はどう変わっていたか。ノーベル賞受賞はどうなったか。記念館で見た英世寵愛の顕微鏡は、今のものに比べたらそれはみすぼらしい代物でした。その光学顕微鏡を使って細菌が発見されたのが1674年のこと。発見者はオランダのレーウェンフック。それからパスツールやコッホが登場し、感染症(細菌・微生物学)の基礎をつくっていった。1892年にはロシアのドミトリー・イワノフスキーが「細菌濾過器」を通過する病原体(タバコモザイク病)の存在を証明し、1898年にはドイツのフリードリッヒ・レフラーらが口蹄疫の病原体分離を試み、マルティヌス・ベイエリングはこれを分子であると主張した。1935年、ウェンデン・スタンレーがタバコモザイクウイルスの結晶化に成功し、さらに電子顕微鏡で可視化した(1946年にノーベル化学賞受賞)。電子顕微鏡は1931年、ベルリン工科大学のマックス・クノールとエルンスト・ルスカの共同開発による(1986年にノーベル物理学賞受賞)。英世がガーナで黄熱病に斃れたのが1928年・・・・・・それだけに生まれるのが20年遅かったならの譚。ついでながら微生物のサイズについての譚。菌類(真菌)は5~12μm、原虫(トキソプラズマ・犬のバベシアなど)は1~20μm、細菌(最小はクラミジア)が0.5~5μm、リケッチャ(ツツガムシ病など)が0.5~2.5μm、(リケッチャまでは光学顕微鏡で観察可能)、マイコプラズマは50~300nm、ウイルスは100nm(ノロウイルスは30nm)、(マイコプラズマとウイルスは細菌濾過器を通過する)。μmは1/1000m、nmは1/1000μm。大きさは目安。電子顕微鏡の発見がもう20年早かったなら、「実験マシーン」の運命や如何に・・・・・・という譚でした。つづく。1月15日。
●野口英世の業績の譚。①渡米早々の1900年、蛇毒の血清学的研究成果で信頼を得た。②梅毒スピロヘータの進行性脊髄癆の原因がスピロヘータそのものであることを病理組織学的に証明(1913年=大正2)、③梅毒スピロヘータのウサギへの感染実験成功(同)が主な業績である。梅毒スピロヘータの純粋培養・小児麻痺病原体特定・狂犬病病原体特定・南米の黄熱病病原体特定・トラコーマ病原体特定・アフリカの黄熱病病原体特定などは、当時の研究者からも眉唾物として見られていた。むろん現在では全否定されている。スピロヘータは細菌であり、英世は南米の黄熱病の病原体がそのスピロヘータであるとしたが、実際はウイルス(フラビウイルス)であり、媒体はネッタイシマカであった。英世はスピロヘータの一種であるレプトスピラ病(ワイル病・犬にも感染する黄疸と腎不全が特徴)と見間違えていた。トラコーマはクラミジアが病原体であり、その他はすべてウイルス病であった。当時もウイルスなるものの存在は想像されていた。英世は細菌・病理学者であり、その他の微生物(ウイルスなど)の学者ではなかった・・・・・・のだが、電子顕微鏡もない当時としてはそれを責めても酷なことだろう。※1915年に稲田龍吉、井戸泰両博士により、世界で初めて病原体。日本では、秋疫、七日病と呼ばれる地方病として農作業や土木従事者の間で発症。犬では未だに重要な伝染病。病原体はL.Icterohaemorrhagiae。
※微生物学の歴史:1674年にオランダのレーウェンフックが顕微鏡観察によって細菌を見出したことに始まり、その後1860年にフランスのルイ・パスツールが生物学や醸造学における意義を、1876年にドイツのロベルト・コッホが医学における意義を明らかにしたことで大きく展開した。特にコッホが発見し提唱した「感染症が病原性細菌によって起きる」という考えが医学に与えた影響は大きく、それ以降、感染症の原因は寄生虫を除いて全て細菌によるものだと考えられていた。1892年、タバコモザイク病の病原が細菌濾過器を通過しても感染性を失わないことをロシアのドミトリー・イワノフスキーが発見し、それが細菌よりも微小な顕微鏡では観察できない存在であることを報告した。またこの研究とは別に、1898年にドイツのフリードリッヒ・レフラーとパウル・フロッシュが口蹄疫の病原体の分離を試み、これが同様の存在であることをつきとめ、「filterable virus(濾過性病原体)」とも呼ばれた。同じ年にオランダのマルティヌス・ベイエリンクはイワノフスキーと同様な研究を行って、同じように見出された未知の性質を持つ病原体を「Contagium vivum fluidum(生命を持った感染性の液体)」と呼んだ。レフラーは濾過性病原体を小さな細菌と考えていたが、ベイエリンクは分子であると考え、この分子が細胞に感染して増殖すると主張した。ベイエリンクの主張はすぐには受け入れられなかったが、同様の性質をもった病原体やファージが発見されていくことで、一般にもウイルスの存在が信じられるようになった。その後、物理化学的な性質が徐々に解明され、ウイルスはタンパク質からできていると考えられていた。1935年にアメリカのウェンデル・スタンレーがタバコモザイクウイルスの結晶化に成功し、これによってはじめてウイルスは電子顕微鏡によって可視化されることとなった。またスタンレーの発見したこの結晶は感染能を持っていることを示し、化学物質のように結晶化できる生物の存在は科学者に衝撃を与えた。スタンレーはこの業績により1946年にノーベル化学賞を受賞した。(Wikipediaより)。つづく。1月14日。