●広辞苑によると、荒木村重は「安土桃山時代の武将。織田信長に属し摂津を領したが、叛いて毛利と結ぶ。のち剃髪して筆庵道薫といい、茶道に長じ秀吉に接近。(~1586)」とある。「『鬼灯』創作ノート-荒木村重のことども」ではどうか。①丹波の生まれで、一僕から身をおこし摂津国の国主となる。②「天正六年正月、かれが安土城へ伺候したとき、信長が脇差を抜き、かたわらのまんじゅう(肉ともいう)を突き刺して村重に食え、といったという話である。・・・・・・村重は拝跪しつつ進み出、手を使えば畏れがあり、このため犬のように口だけ突き出してまんじゅうを食い取り、そのあと白刃のよごれを自分のい袖でぬぐいとり、しずかにさがってまた拝跪した。」。この時既に村重は織田家の六人の高級司令官の一人であったのだが・・・「ひとびとは村重の豪胆におどろいたと言い・・・・・・」となる。③天正六年六月に播州上月城外の高倉山での合戦時、秀吉軍の応援をせず、結果として信長の命令に背いた。④信長軍が石山本願寺を包囲している時、村重の家来が敵方(石山本願寺と毛利方)に米を売った。細川幽斎がこれを信長に報告した。村重は自分が本願寺に内通しているように疑われることを怖れるとともに、信長の性格を考慮して(殺されるに違いない)、信長への謀反に至った。毛利と信長を天秤にかけた結果かもしれないが・・・。以上の話から容易に想起されるのがこの四年後の「本能寺の変」である。光秀の謀反は合点のいくところだったのだろうが、「信長公記」では、「不実に思食され、何扁の不足候哉」とつぶやいたと云うから、信長にとって村重は意外だったのだろう。⑤村重は伊丹城(当時は有岡城)で信長の大軍と戦ったが、村重はほとんど身一つで支城の尼崎城に逃避した。それも家来と女子供を伊丹城に残してである。信長は、「尼崎を開けば、伊丹城にいる千人前後の女子供の命をたすける」という条件をだした。血も涙もないというか、「武士の情(名こそ惜しけれ)」の片隅にも置けないというか、戦国の御大将が信長の条件を受け入れず(老臣ともども)、いずことなく遁走した。「伊丹城の数百の女子供は村重の妻女や、村重が愛した側室の”たし”をふくめて、ことごとくが信長によって磔殺、焚殺された」のである。⑥村重は畿内を流浪し続け、やがて元朋輩の秀吉に拾われ、こともあろうか(秀吉は何を思ってか)秀吉の御伽衆として余生を送った・・・・・・ということである。その余生も華やかそのもだ。利休の高足七人のうちのひとりでもあり、この時代の高名な茶人であった。号は「筆庵道薫」で、「荒木高麗」、「兵庫の茶壺」、「姥口の平釜」の所持者として、今もその道で知らない人はいないと云う。稀有な戦国大将の生き様なのだ。とまれ、鳩山由紀夫元総理と荒木村重の生き様、どこか類似点がありませぬか。御伽衆として彼を雇い得る大人物が平成の世にいるや否や。そう考えると村重のほうが鳩山氏よりも「なかなかの者よのお」・・・・・・なのか。2月12日の「菜の花忌」を間近にして司馬さんの記念館の菜の花が切り取られた事件。それも約770本の多さだ。さもしい人間もいるものだ。2月8日。
●1月29日の報道で、「鳩山氏はこの日午前、反対派が抗議活動をしている移設先の米軍キャンプ・シュワブ前を元民主党国会議員らとともにスーツ姿で訪問。『アベ政治を許さない』と書かれたプラカードを持って道路脇に座り込んだ。取材に対し『みんながトラックの資材搬入に抵抗しようとしていたので、居合わせた私も協力したいと中に入った。日本人として(辺野古移設を)もう一度考え直さなければならないと自分にも言い聞かせて行動した』と述べた。鳩山氏は民主党代表当時に普天間飛行場の移設先を『最低でも県外』と唱えたが、民主党政権は代替案を見つけられず、辺野古移設に回帰した経緯がある。(産経ニュースを抜粋)」。このニュースに接して、理想はそうだろうがその無責任さは総理の現職時代といくらも変わってないどころか、ロシア訪問など過去の言動を見るにも、情けない、日本の恥さらし男ナンバーワンだなと感じ入ってました。そして今日の午前中、「『鬼灯』創作ノート-荒木村重のことども」(司馬遼太郎「歴史のなかの邂逅2」・pp47~63・中公文庫)を読んでいたら、鳩山由紀夫氏と戦国大名の荒木村重の人生が重なったので紹介します。司馬さんは最後に、「村重的な権力現象は、決して奇談ではない。すでにそれを村重が現出させた以上、当然、人間の世の中で、歴史時間と関係なくつねにおこりうるし、どの社会においてもそれがおこりうる危険性をすべて持っているように思える。」と書き締めている。「中央公論」1975年12月号の掲載である。つづく。2月7日。
●広島原爆投下の爆心地である島病院(現島内科医院)前の碑には、「テニアン島から飛来した米軍機B-29『エノラ・ゲイ号』によって人類史上最初に使用された原子爆弾は、この上空約600メートルでさく裂しました。爆心直下となったこの一帯は、約3,000度~4,000度の熱線と爆風や放射線を受け、ほとんどの人びとが瞬時にその生命を奪われました。時に1945(昭和20)年8月6日午前8時15分のことでした。」。この碑文の上には「現地点から見た北方の惨状 1945年11月 米軍撮影」という注釈入りの写真が焼き付けられたあります。今回の旅でも広島と長崎の原爆投下について深く考えさせられました。どのような理由があれ無差別の人間大量殺戮はあってはなりません。戦争に至った経緯について国民一人ひとりが広く深く思いを巡らすことが必要です。教育はこの点に多くの時間を割くべきです。小学・中学・高校の縄文時代や弥生時代、それに平安時代までの歴史教育はあまり重要でない筈です。さらに言及すれば、歴史教育は明治維新以後からスタートさせ、時間が残れば駆け足で縄文~江戸時代を教えても良いでしょう。広島市民は未だ原爆の後遺症に苦しんでいます。原爆後遺症や発癌などの問題、被爆者への差別、被爆者同士の差別など、被爆による影響は多岐にわたっています。われわれ旅行者が軽々に原爆を論ずることは、あの熱線と爆風による多くの犠牲者に対してすこぶる失礼だとも思いました。広島平和公園訪問から早や3週間、今も頭から消え去らないのは2歳で被爆、12歳9か月で亜急性リンパ性白血病に罹患し亡くなった佐々木禎子(1943~1955)さんの棺の中の写真です。「中学校の体育の先生」になるのが夢で、1955年2月に診断され、同10月25日の朝に危篤におちいりました。 父親から食べたい物は何かと尋ねられ、「お茶漬けを食べたい」と伝えました。沢庵と共にふた口食べ、「あー、おいしかった」とつぶやき、これが最期の言葉だったということです。彼女が「原爆の子の像」のモデルであり、彼女が薬の袋で折った千羽鶴が平和のシンボルであり、オバマ大統領が資料館に残した千羽鶴でもあります。犠牲者に改めて冥福を祈る気持ちです。2月7日。