●「周防岩国の産です。-で私は、帰国した後も、毎日、練磨を怠らずに、錦帯橋の畔へ出て、燕を斬り、柳を斬り、独りで工夫をやっていました。-母が亡くなります際に、伝来の家の刀ぞ、大事に持てといわれてくれましたこの長光の刀もって」・「銘はありませんが、そういい伝えています。国許では、知られている刀で、物干竿という名があるくらいです」(吉川英治著「宮本武蔵(二)」pp394~395・新潮文庫)。吉川英治はこの「宮本武蔵」で小次郎を「美少年」と書いているが、慶長17年4月13日(1612年5月13日)の巌流島での決闘時の年齢は、宮本武蔵が20代で佐々木小次郎が60歳近くだったとされる。70歳前後との説もある。出身(出生)についても、豊前国田川郡副田庄(現福岡県田川郡添田町)や、1776年(安永5年)に熊本藩の豊田景英が編纂した『二天記』では越前国宇坂庄浄教寺村(現福井県福井市浄教寺町)と記されており、諸説ある(Wikipedia参照)。秘剣「燕返し」は、錦帯橋(錦川)の畔の柳が燕を打つのを見ての発想と云うが、福井の一乗滝で身につけたとされている説が有力。そもそも錦帯橋が最初に架けられたのが岩国3代領主の吉川広嘉の時代(1673年)であり、このとき既に小次郎の死から60年が経過しているから、錦帯橋説はない。いずれにしても吉川英治の創作であることは確かだろう。小説とは左様なものである。春の訪れと日に日に増す日照時間に心浮かれ、親仁ギャグが間延びしてしまいました。悪しからず。つづく。2月24日。