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今週の親仁ギャグ・2018年3月4日(日)~3月10日(土)

シーボルトの譚。幕末の日本の人口は3300万人を少し超えていたに過ぎない。全人口比で見ると、幕末の地方の中心都市の人口は、今に比べ大幅に少ない。長崎市の今の人口は約42万人であるが、シーボルトが滞在していたころは3万人であり、周辺の村を加えても5万人がせいぜいであった。シーボルトは1796年、バイエルン王国ヴェルツブルグ生まれ。ドイツ人である。1820年、医師国家試験を受け、ハイディングスフェルトで町医者を開業。しかし名門貴族出身だという誇りと自尊心が強く町医師で終わることを選ばなかった。興味の東洋学研究を志したシーボルトは1822年、オランダのハーグへ赴き、国王ウィレム1世の侍医から斡旋を受け、7月にオランダ領東インド陸軍病院の外科少佐となる。近年の調査により、バタヴィアの蘭印政庁総督に宛てた当時のシーボルト本人の書簡に「外科少佐及び調査任務付き」の署名があることや、江戸城本丸詳細図面や樺太測量図、武器・武具解説図など軍事的政治的資料も発見されたことから、単なる医師・学術研究者ではなかった(Wikipedia抜粋)・・・・・・つまり後のシーボルト事件からも推察されるように、オランダのスパイだった可能性があるようだ。1822年にオランダ領東インド陸軍外科少佐となったシーボルト先生が長崎に到着したのは27歳の1823年であった。ではシーボルト先生の日本年譜をどうぞ。

1823年:長崎に到着(27歳)
1824年:鳴滝塾を開く
1826年:江戸参府(30歳)
1826年、:(楠本)いね誕生(31歳)
1828年、シーボルト事件が起こり、翌年(1829年)国外追放(33歳)
1859年:再渡来し、長崎到着(63歳)
1861年:幕府から江戸へ招かれ、1862年に離日(66歳)
(1866年、ミュンヘンにて70歳で死亡)

つづく。3月9日。

上野彦馬の譚。旅の妙味のひとつは予期していない発見をすることです。予期とか偶然とかではなく、正確には下調べが無かったか、興味をもっていなかったかのどちらかです。亀山社中風頭山の中腹に位置しており、市内からは風頭公園行(終点)のバスに30分足らず乗ります。歩くものなら10分で中途棄権、脱落しそうな急峻な坂の連続です。はじめから終点まで坂です。路幅も狭く離合するところもあります。高度な運転技術が要ります。風頭公園から10分足らずで龍馬像に行き着きます。それからさらに龍馬通りを下ると亀山社中です。またその直ぐ下方に龍馬のブーツ像があります。ついでながら山を下り切り、流れる中島川を下れば眼鏡橋に行き着きます。この公園のある風頭(かざがしら)山は標高151.9mで、長崎駅の東方3kmに位置します。その龍馬像に到達する30m手前に小さな墓地があるのですが、そこで発見したのが上野彦馬の墓でした。むろん竜馬愛好家としても、そして日本の写真術の始祖である上野彦馬の名前と出身地は知っていましたが、まさか彦馬の墓が亀山社中の傍だったとは驚きでした。上野彦馬(1838~1904)の父(上野俊之丞=御用時計師で蘭学者)は、フランスで発明されたばかりのカメラを輸入し、1841年に彼の島津斉彬公などを撮影した人物です。彦馬は日本における写真技術確立のパイオニアであり、日本最初のプロカメラマンであり、写真機製造者でもあります。がしかし、彼の最大の貢献は感光材の調達と開発であります。その技術開発を手助けしたのがオランダ人医師、ポンぺです。龍馬に関する写真で、現存するのはわずか6枚とされています。①起立の全身像、②椅子に座った全身像、③坐像と思われる半身像、④縁台に坐った全身像、⑤5人の海援隊士との集合像、⑥伊藤助太夫らとの3人像・・・・・・の6枚です。(①は彦馬の弟子、井上俊三の撮影とされる)。上野彦馬の苦闘は司馬さんも「胡蝶の夢」の二巻(2012年8月五十刷・pp202~253)の「秋の丘」に詳しく書いています。「胡蝶の夢」の主人公は、松本良順、関寛斎、司馬凌海(島倉伊之助)ですが、幕末だけあって多種多様な人物が登場します。ポンぺ(1829~1908):1857年から1862まで日本滞在つづく。3月8日。

龍馬と言えば、薩長同盟大政奉還の立役者だ。長崎の龍馬と言えば、亀山社中(後の「土佐海援隊」)と船や武器の海外からの調達(トーマス・グラバー)である。そこで龍馬はこの長崎に如何程行き来していたのであろうか。「図説・坂本龍馬」(戎光祥出版・初版8刷2016年10月20日発行)の坂本龍馬関係年表(pp183~189・小椋克己/土居晴夫)を参考に、(主に海路での)龍馬の長崎訪問を探って見ましょう。

1864年(元治元)2月10日:海舟、外国艦隊の下関砲撃回避のため京都を発し、長崎へ出張、龍馬ら随行(これが龍馬の最初の長崎訪問)。一行はこの後、熊本の横井小楠を訪問。龍馬30歳
同2月23日:熊本からの帰路、長崎到着。
1864年(慶応元)11月24日:大阪から周防下関を経て長崎に向かう。12月3日:長崎から下関着。龍馬31歳
1866年(慶応2)6月4日:長崎寄港。6月2日、長州へ引き返す桜島丸に便乗、鹿児島発。お龍も乗船。6月4日、お龍を下船させ、小曽根英四郎別荘に預ける。龍馬32歳
同7月下旬~8月上旬:長崎-鹿児島-下関を往来。
同8月15日:鹿児島から長崎に戻り、小曾根邸を定宿とする。
同12月上旬:(下関から)長崎に戻る。
1867年(慶応3)1月11日:1月9日、下関を発ち、11日に長崎上陸。1月13日:長崎清風亭で土佐藩参政後藤象二郎と会見。(2月10日:長崎からお龍を連れ下関着。伊藤助太夫邸離れにお龍と居住)。龍馬33歳
同5月13日:後藤象二郎に「いろは丸事件」の顛末を報告。同6月9日:土佐藩船夕顔で長崎出航。後藤象二郎、長岡謙吉とともに兵庫へ。船中で大政奉還策を協議。
同8月15日:夕顔で長崎着。小曾根家の海援隊宿舎に入る。9月18日:芸州船震天丸を借用し、銃を積んで長崎を出港。陸奥陽之助ら同行。

・・・・・・と云う記録が遺っているようです。亀山社中のガイドさん(親切なおじ様ボランティアさん)によると、龍馬の長崎での総滞在日数は約100日で、お龍さんが約180日と云うことでした。龍馬30~33歳までの4年間に10回長崎を訪問し、トータルで約100日間滞在したと云うことになりそうですつづく。3月7日。

豊臣秀吉の肥前名護屋城滞在は? 1回目は、文禄元年(1592)3月25日に京都を発ち、4月25日に名護屋へ着陣し、同7月22日に大政所(秀吉の実母)の危篤の報により名護屋城を発ち京へ。2回目の名護屋城は、文禄元年(1592)10月1日に再度名護屋へ出陣し、11月1日に名護屋着陣、文禄2年(1593)8月14日に名護屋を発った・・・・・・と云う記録が遺っているから、1回目の名護屋城滞在は約3カ月であり、2回目の名護屋城滞在は9.5ヵ月となることから、合計の名護屋城滞在は12.5ヵ月である。閏年までは調べていないが、日数にすると12.5×30=375日、より正確には372日と考えられる。因みに坂本龍馬の長崎での総滞在日数は約100日と云うから、思いの外、秀吉の名護屋城滞在は長期であった。:大政所は1516年に誕生し、1592年8月29日(天正20年7月22日)に没した。危篤の報を聞き秀吉が名護屋を発ったその日に大政所は息を引き取ったということか。つづく。3月5日。

秀吉と名護屋城逗留。秀吉は名護屋城でいかほど生活(指揮)したのか?
①1585年(天正13)9月3日:大陸侵攻に言及(一柳直末への朱印状)。
②1591年(天正19)10月10日:名護屋城普請開始。
③1592年(天正20)1月5日:全国の大名へ朝鮮への出兵を命じる。
同3月25日:秀吉、京都を発つ(出陣)。
同4月25日:秀吉、名護屋へ着陣。
1592年(文禄元・4月13日):文禄の役の開戦(小西行長らの第一陣が釜山に到着)。
⑦同6月2日:秀吉、家康や利家の諫言にとり朝鮮渡海を延期(断念)。
同7月22日:名護屋城を発ち京へ(大政所危篤の報により)
同8月2日:秀吉、入洛
同10月1日:秀吉、再度名護屋へ出陣。
同11月1日:秀吉、名護屋着陣
1593年(文禄2)8月14日:秀吉、名護屋を発ち、大阪へ。
⑫1596年9月2日:明との交渉決裂。朝鮮への再出兵を命じる。
⑬1597年(慶長2)2月21日:慶長の役、開戦。
⑭1598年(慶長3)8月18日:秀吉、伏見城にて没。日本軍、朝鮮半島からの撤兵開始。
⑮同12月10日:島津義弘の筑前博多到着をもって、撤退完了。

:年月日は旧暦
つづく。3月4日。

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