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今週の親仁ギャグ・2018年3月11日(日)~3月17日(土)

●長崎は造船所の街である。戦艦武蔵はここで造られた。これも吉村昭の「戦艦武蔵」に詳しい。呉で造られた「大和」と同形であり、信濃(空母に改装)と111号艦も同型である。総排水量は約70000トン、全長263m、幅38.9mである。ちなみに速度は最高で毎時27.46ノット、毎時16ノットの速度では1334kmを航行できる。乗員は3332名。射程は45口径で46km(初速は2808km/h、1710km/hで着弾)。(数字は「大和」の場合)。今の長崎港は豪華客船が花形のようだ。三菱造船は、採算面から新規の豪華客船には消極的であり、外国勢に圧倒されている。長崎港には年に300隻弱の豪華客船が接岸寄港し、多くの外国人観光客が降りて来る。早朝に接岸して夕刻に出港することが大半のようだ。先月の旅の折も「コスタ・フォーチュナ」号が接岸していた。総重量10万トン超の船である。なかには総重量が15万トンを超える客船もある。乗客だけでも5千人以上が寝泊まりしている。これらの船の航行状況は、飛行機の運航状況同様にネットでリアルタイムに調べられる。(長崎の旅の余韻は「壺中の別天地」でどうぞ)。3月17日。

シーボルトの医学私塾「鳴滝塾」には全国から多くの俊才が集い、門下生は150名に上る。有名どころでは、江戸日本橋にお玉が池種痘所(東大医学部の前身)を開いた伊東玄朴(佐賀)、臨床外科の元祖と言われる戸塚静海(静岡)、植物学者で東大教授・最初の理学博士となる伊藤圭介(愛知)、塾頭となる高良斎(徳島)、日本初の様式測量者で富士山の高さを測定し、またシーボルトの娘・楠本いねの面倒を見た二宮敬作(愛媛)、石井宗謙(岡山)、優れた翻訳能力でシーボルトの一番弟子であり著書・訳書が49部300巻にも及ぶ高野長英(岩手)、鳴滝塾初代塾頭でシーボルトを通して産科論文をヨーロッパで発表(日本初の海外論文掲載)した美馬順三など、錚々たる面子である。※1:高野長英はシーボルト事件では巧く逃れたが、のちも幕府の問題児のとしてお尋ね者となり、遂には捕縛された。これは吉村昭の「高野長英」(新潮文庫)に詳しい。※2:石井宗謙二宮敬作の勧めでシーボルトの娘・イネの面倒をみていたが、恩師の娘に手を付けるという御法度を犯し、身ごもらせた人物。この後、これが原因で石井はシーボルト同窓より破門。つづく。3月16日。

●「シーボルトは事件は、ポンぺ以前に日本の科学に最も大きな刺激と影響をあたえたこの蘭医(実際はドイツ人)が、帰国(文政十一年・一八二八)にあったて乗船が長崎港外で暴風雨に遭い、港内に押しもどされて座礁したことからおこった。このため幕吏の手でシーボルトの行李が開けられ、多数の禁制品が発見された。さらにシーボルト方が家宅捜索され、その種の品々が幾点か出てきた。・・・・・・」(司馬遼太郎「胡蝶の夢・二」新潮文庫)。禁制品の第一は「御紋」、すなわち葵の御紋が入ったものはがそうで、シーボルトはそれを持ち帰ろうとしていた。他にも武具ならびに武者絵、絵入り之源氏、船の絵、日本地図、江戸図、琉球地図、朝鮮地図などが入っていた・・・と司馬さんは書いている。その葵の御紋を与えたというのが日本眼科の開祖とされる土生玄碩(1762~1848)とされる。玄碩は、白内障の手術の際に必要な散瞳剤であるベラドンナの供与を懇願し、引き換えに御紋を与えたとされる。シーボルトは、とくに植物学に関しては玄人はだしだったし、動物学にも並々ならぬ興味を抱き後年、動植物学書を成した。基礎・実践医学においても多くの弟子を全国から受け入れた。医学での得意は外科と眼科、産科であった。手術では腹水穿刺、陰嚢水腫、兎唇、乳癌などを行い、産科鉗子を用いて分娩を介助した。つづく。3月16日。

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