●「余部鉄橋」は、1909年(明治42)12月16日に着工し、1912年(明治45年)1月13日に完成、そして同3月1日に開通したのであります。実に今より106年前の快事でした。高さは41.45m、総工費331,536円、使用した鋼材は1010トンでした。鋼材は主にアメリカから船便で運んだとのこと。開通の74年後、悲惨な列車転落事故を経、2010年7月16日に営業を終了しました。そしてその約1か月後の同年8月12日に今の鉄橋による営業が始まったのです。山陰本線は、というよりは、但馬~因幡~伯耆~出雲~石見の国々の生活はこの余部の鉄橋を無くしては成り立たないということです。100年前も今もです。驚いたことに彼の後藤新平・鉄道院総裁もこの難工事を視察に来ていた云うことです。7月12日。
●記憶に残る昭和・平成の重大事故事件。われわれの世代では、東日本大震災、阪神淡路大震災、日航ジャンボ機墜落事件、あさま山荘事件、地下鉄サリン事件・・・・・・。記憶は薄いかもしれないが、そのなかのひとつに余部鉄橋列車転落事故がある。Wikipediaを拝借すると、「1986年(昭和61年)12月28日13時25分頃、香住駅より浜坂駅へ回送中の客車列車(DD51形1187号機とお座敷列車『みやび』7両の計8両編成)が日本海からの最大風速約 33 m/s の突風にあおられ、客車の全車両が台車の一部を残して、橋梁中央部付近より転落した。転落した客車は橋梁の真下にあった水産加工工場と民家を直撃し、工場が全壊、民家が半壊した。回送列車であったため乗客はいなかったが、工場の従業員だった主婦5名と列車に乗務中の車掌1名の計6名が死亡、客車内にいた日本食堂の車内販売員3名と工場の従業員3名の計6名が重傷を負った。なお、重量のある機関車が転落を免れたことと、民家の住民が留守だったことで、機関士と民家の住民は無事だった。しかし事故後、機関士の上司は責任を感じて自殺した。・・・・・・事故後、のべ344人の作業員を投入して枕木220本とレール 175 m の取り替えを行い、事故の遺族からの運転再開容認を12月31日10時30分に取り付けて、15時9分に事故後の最初の列車が鉄橋を通過した。」という悍ましい事故である。今回の旅でその現場を通った。慰霊碑が建ち、今も花の手向けが途切れないという。その日も手を合わせる観光客がいた。私も「このような事故のない社会」を願って合掌した。すぐ傍には売店があり、そこで小腹を満たした。そして海岸線を沿うように城崎へ車を走らせた。7月11日。
- 宿の壁の漆喰は一部が朽ちかけており、かえって情緒が深まった。この城崎温泉も他の観光地同様にか、都会化され洗練されたファッションの若者やインバウンドさんらが闊歩していた。湯
- 写真は早朝の城崎温泉の街。6つか7つの外湯が6時半に開く。その一番札を求めてか、観光客が列を作っていた。わたくしはそれを尻目に志賀直哉が歩いたであろう道を辿った。右写真は志賀
- 温泉での護岸にも貢献。この柱状節理は伊豆の浄蓮の滝でも有名。下段左は大たに川の夜景。「山の手線の電車に跳飛ばされて怪我をした・・・」で始まる「城の崎にて」。その養生のため
- 海岸国立公園に指定された。写真の玄武洞は中国の妖獣「玄武」に由来。ここの玄武岩は160万年前の火山活動で流出した溶岩が冷却時に形成されたもの。柱状節理と呼ばれ、江戸時代からの
- →に登場するくらいに猛暑地だが、1カ月前は曇天で気温はマズマズ。(翌日の京都はとんでもない暑さだったが)。写真はその海岸線。波は凪で、江戸の末期、この海を高田屋嘉兵衛の北前船
- 新ドン)に細田氏に、そして石破氏である。3人で数十人分の力を持っているような領袖である。今回のルートは山陰道は米子から鳥取砂丘まで利用し、それから東はできる限り海岸線の旧道(