コンテンツへスキップ

今週の親仁ギャグ・2018年10月7日(日)~10月13日(土)

●1929年(昭和4)、小林多喜二が文芸誌「戦旗」に発表した「蟹工船」。プロレタリア文学の代表作であり、国際的にも高く評価されている。1953年と2009年の2回、映画化も。プロレタリアとは「資本主義社会で、生産手段をもたず、自分の労働力を資本家に売って生活する賃金労働者。またはその階級。無産者。」(スーパー大辞林)である。「蟹工船とは、戦前にオホーツク海のカムチャツカ半島沖海域で行われた北洋漁業で使用される、漁獲物の加工設備を備えた大型船である。搭載した小型船でたらば蟹を漁獲し、ただちに母船で蟹を缶詰に加工する。その母船の一隻である「博光丸」が本作の舞台である。」(Wikipedia)。作品は「新聞紙法に抵触したかどで発売頒布禁止処分。1930年7月、小林は『蟹工船』で不敬罪の追起訴となる。作中、献上品のカニ缶詰めに対する「石ころでも入れておけ! かまうもんか!」という記述が対象であった。」()。「この小説には特定の主人公がおらず、蟹工船にて酷使される貧しい労働者達が群像として描かれている点が特徴的である。蟹工船「博光丸」のモデルになった船は実際に北洋工船蟹漁に従事していた博愛丸(元病院船)である。 」()。国策に反した資本主義社会への批判であった。最期は、「1933年2月20日、多喜二は共産青年同盟中央委員会に潜入していた特高警察のスパイ三船留吉からの提案により、赤坂の連絡場所で三船と落ち合う予定で、共産青年同盟の詩人今村恒夫とともに訪れた。その待ち合わせ場所には、三船からの連絡により張り込んでいた特高警察が待機していた。多喜二はそこから逃走を図ったが、逮捕された。同日築地警察署内においての取調べについては、今村から話を聞いた江口渙が戦後発表した「作家小林多喜二の死」という文章を手塚英孝が『小林多喜二』で紹介している。それによると、警視庁特高係長中川成夫(警部。のちに滝野川区長、東映取締役)の指揮の下に多喜二を寒中丸裸にして、まず須田と山口が握り太のステッキで打ってかかったとある。その後、警察署から築地署裏の前田病院に搬送され、19時45分に多喜二の死亡が確認・記録された。 」()。多喜二は拷問で撲殺されたのであり、死亡写真を見る限り、外傷性出血性ショックでしょう。その時のデスマスクが小樽市の「小樽文学館」にあるのです。10月12日。

●「逢いたい気持ちがままならぬ 北国の町はつめたく遠い 粉雪まいちる小樽の駅に・・・・・」で始まる「小樽の女よ」。上野駅を模したとされるその小樽駅。それ以外にも小樽には観光資源が多くある。小樽運河寿司通り花園に、そして「蟹工船」の小林多喜二デスマスクのある「小樽文学館」(同じ建物内の「市立小樽美術館」には中村善策の洋画もあり)・・・・・・そしてそして「お値段以上」の「似鳥美術館」もあります。平日なのに観光客は多数。10月9日。

先頭へ