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今週の親仁ギャグ・2019年1月6日(日)~1月12日(土)

●明治政府は、朝鮮李王朝に対して、維新政府は鎖国時代の幕政を廃止し、天皇親政の国に復したこと、これによって従来通りの交流を願う・・・・・・との旨の国書を送付したが、何度にもわたってこの国書は突っ返された。この朝鮮の非礼とも思える扱いは、当時の李王朝が極端に日本嫌いであったこと、かつ西欧嫌いの攘夷主義者であったこと、フランス、アメリカと戦い、両国がいい加減な撤兵をしたのにもかかわらず、これらを負かしたと思い込んでいた・・・・・・などの理由によるとされている。これらから当時の李王朝は、「洋夷恐るるに足らず」、「日本は欧米の妖気に迷い、ひたすらにこれにならおうとしている由。禽獣を学ぶものは即ち禽獣じゃ。交際などしてなろうか。干戈に訴えるというのなら、それもよかろう。いつでも相手になるぞ」としていた。そこでにわかに再燃したのが吉田松陰や水戸学派らが唱えていた「征韓論」であった。西郷さんの遣韓論はどうだったか。「兵はいきません。大使たるものは、烏帽子直垂で、礼を厚うし、威儀を正して行くべきでごわす」・・・「そう(殺される)なれば幸いでごわす。朝鮮の民は自国の政府の悪を知り、日本の民は朝鮮政府の暴悪を知ります。万国皆知ります。そこで罪を鳴らして討てばよかのです。名正しく、言順なる戦さというものでごわす」・・・西郷さんは兵を率いず、無腰で行こうとしたのです。朝鮮を武力で征服しようなんて考えていなかったのです。「西郷征韓論」は、留守参議(岩倉具視、大久保利通、木戸孝允らは米欧使節団で外遊)のなかで西郷さんと一番の仲良しだった板垣退助が、西郷さん亡き後に流布し、「征韓論」の首魁は西郷さんであるとの、誤った歴史認識が創造されたのです。:下線は、海音寺潮五郎著「西郷と大久保」(新潮文庫)の「征韓論」の章(pp580~609)より

●「西郷どん」は最後の2話だけを視聴した。西南戦争の宮崎での敗走場面がどこまで映像化されているのかに興味を持ったため。西郷隆盛征韓論に敗れて薩摩に西下し、そして西南戦争が起こった。武力で朝鮮を征服するようなことを西郷さんは本当に考えていたのだろうか。これは西郷さんに関する小説を読んでいく中でいつも疑問に思うことであった。征韓論とはなんぞや。例のようにWikipediaを拝借すると、「日本では江戸時代後期に、国学や水戸学の一部や吉田松陰らの立場から、古代日本が朝鮮半島に支配権を持っていたと『古事記』・『日本書紀』に記述されていると唱えられており、こうしたことを論拠として朝鮮進出を唱え、尊王攘夷運動の政治的主張にも取り入れられた。」とある。一部でテロリストなんて揶揄される吉田松陰先生の征韓論は、それは武力をもってであり、その朝鮮征服論には西欧の脅威、とくにロシアによる日本本土侵攻の危惧があった。西郷さんも同様にロシアの脅威を第一に考えており、それには朝鮮半島(李王朝)との協調・協力が必須であるとした。2006年、鹿児島県議会は、教科書で西郷さんが「征韓論」を唱えたとの記述に対して、征韓論でなく遣韓論と書き改めるよう要望し、一部の出版社はそれに応じた。征韓論遣韓論とは如何様な差異があるのか。そして西郷さんと大久保利通との仲たがいの真相はどのようなものであったのか。つづく。1月10日。

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