●われわれの小中学校時代、碌な雨具もないような時代でした。破れ傘に破れ合羽、長靴も無い時もある、そういう田舎の風景でした。夕立でも来そうものなら、皆濡れて帰る始末でした。今回の台風・・・・・・これしきのことで休校なんて考えられませんでした。親は仕事で家にいないし、栄養源の学校給食も腹に入りません。仮に家に1人でいても、今のように物騒な時代ではありませんせしたが、勧進(物乞いやら托鉢僧やら分かりませんでしたが)が時に訪ねてきました。親からは、勧進が来たら米櫃から茶碗一杯の米をあげるように言われていました。鍵の無い玄関からお経が突如聞こえてきたときは心臓が止まりそうでしたが・・・・・・。それはそうと台風や大雨の中、登下校するということは、いろんな経験や勉強をさせられます。車の跳ね水の防御法に強風時の傘の持ち方、雨宿りの仕方、傘の代替品(芋茎の葉など)、濡れた服の乾かし方・・・・・・などなどです。これらは大人になっても大変役に立つ生きる術の原点であります。要は、そう簡単に安易な休校を連発しないことです。甘やかしては逞しく生きる子供の芽を摘んでしまうことになるのです。呵呵!!! 7月6日。
●今回の豪雨・・・・・・先日の台風による休校処置に批判が殺到したのか、流石に今度は前日に「休校しない(でない)」とのお触れがあったそうな。私たちが餓鬼の頃は、テレビが無かった小学校低学年ではラジオを聞いて台風の位置を(親が)確認していました。「大東島の南南西、東経〇度〇分〇秒、北緯〇度〇分〇秒に位置し、北北東に時速〇kmで進んでいます・・・・・・」という音声であります。私の家にテレビが来たのが小学3年の頃と記憶しています(爺様の御下がり)。テレビがあっても台風の時はアンテナが倒れるなどして殆ど役に立ちませんでした。電話もなかったので学校の連絡は伝言ゲームであり直接伝搬されましたが、実際は途中まで登校し、先に行った人たちが帰ってくることから休校を知ったという時代です。当時の南九州は「台風の銀座(メッカとも)」であり、流石に大型の台風が襲来するときは、前日に休校の周知がなされたと記憶しています。雪も数年に一度は積り、20cmを超えることがありましたが、この時も途中まで登校して休校であることがわかりました。昭和34年生まれの幼少時代は、その程度の情報伝達だったのです。因みに私の家から学校までの距離は片道4kmで、小学校の6年間は徒歩(中学からは自転車)でした。つづく。7月6日。
●いやいや大変な長雨豪雨でした。鹿児島を中心に被害の全容は未だ明らかではありませんが・・・・・・。わたしの病院の近くも八重川や山内川が流れていますので、その水位は気になりました。今は国交省が河川の経時的水位をホームページで教えてくれるので大変助かります。たとえば「やえがわ」で検索すれば上位に出てきます。幸いにも八重川の水位は最高で2m50cmほどでした。7月4日10時現在の八重川の水位は26cmまで下がっています。八重川の氾濫危険水位は3.3m、避難判断と氾濫注意水位は2.8m、水防団待機水位が1.3mだそうです。昨夜の最高水位は午後9時頃だったようですが、これは満潮時刻と関係があるのでしょう。いずれにしてもドシャ降りのなかをわざわざ橋の上まで行かなくて済むという、便利な時代になった訳です。センサーが正常に機能していればの話ですが。そうそう、トライアル前の八重川に架かる橋の名前を「両国橋」というのだそうです。いつも渡るのに初めて知りました。川面の光景……スッポンの姿や大きな鯉の群れ(数匹ですが)は良く観察するのですが、橋の名前までは気に留めてませんでした。余裕の無い生活を送っている証拠でしょう。反省しきりです。「両国橋」・・・・・・名前の由来が知りたいものです。因みに山内川の最寄りの橋の名前は「夢見橋」です。そりゃ両国橋のほうが情趣に富んだネーミングですな。つづく。7月4日。