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今週の親仁ギャグ・2019年9月8日(日)~9月14日(土)

●ここでは「今月の旅」のまとめをして終えようと考えている。ここの「今月」は長岡の旅のことだ。山本五十六元帥の最後について触れ、多くの将官や士官(佐官と尉官)が自決したことに想いを馳せた。かの映画「硫黄島からの手紙」の栗林忠道陸軍中将(死後陸軍大将)の最後は、「米軍の警戒に隙が出た26日未明、栗林は階級章を外し、白襷を肩にかけ、抜刀して残存将兵400名の先頭に立ち、米軍が占領している第1・第2飛行場に突入した。栗林は進撃中に右大腿部に重傷を負い、その場で自決したとされる。満53歳没。」(Wikipedia)。栗林忠道中将は、硫黄島の戦いで従来の水際作戦を入れず、堅牢な地下陣地を構築し、徹底抗戦の策を用いた。上記の残兵総攻撃まで将兵の士気低下を防ぎ、著しく劣る兵力にもかかわらずアメリカ軍の死傷者が日本軍兵のそれを上回るという「勝者なき戦い」の総指揮官であった。アメリカ軍からも優れた指揮官として尊崇される、日本人が誇る有能指揮官のひとりである。が、なかには首を傾げるような最後を選択した将官もある。その一人が、宇垣纏海軍中将であろう。宇垣中将は、玉音放送の直後に部下22名を含む23名で沖縄に向け大分基地を離陸し、いわゆる特攻を指揮した。11機中3機が不時着し5名は生存したものの、宇垣中将を含む18名は特攻死した。また宇垣中将は、ブーゲンビルで山本五十六元帥(一番機)が戦死した時には二番機に搭乗しており、負傷はしたものの生還した人物である。ついでながら先述の大西瀧次郎中将は自決の際、懇意の児玉誉士夫が後追い自決しようとしたところ、「馬鹿もん、貴様が死んで糞の役に立つか。若いもんは生きるんだよ。生きて新しい日本を作れ。」と諫めた。どちらも玉音放送後の事件であるが、物語ではなく両極端の事実である。。次は河合継之助と「今月(9月)の旅」に進む。9月13日。

●「艦長の割腹自決に介錯役をひきうけたのは、砲術長の越野公威中佐であった。砲術長は艦長の横一文字の割腹を見届けると、南無とばかり軍刀を一閃させた。・・・・・・(略)精根つきるまで部下を救うと、越野中佐は最後の力をふりしぼって武蔵に向かった。(略)しばらく抜手を切る水音がきこえ、そしてそれも消えた。」(前出「日本戦艦の最後」p37)。「士官一一二名のうち艦長以下三十九名、兵員二二八九名のうち九八四名は、艦と運命を共にした。」(同p53)・・・・・・艦長はじめ多くの士官がその責任を感じて浮沈艦「武蔵」と運命を共にしたということだ。最後の武蔵の艦長は、猪口敏平少将(死後中将・享年48歳)。大和の場合は、「伊藤長官は参謀長以下の幕僚と訣別の挙手の答礼をされ、長身の体を悠然と階下の長官公室へはこばれ、ドアの鍵をしめられた。」(同p83)。伊藤長官とは伊藤整一中将(死後海軍大将に昇進・享年54歳)。つづく。9月12日。

●旅には物語がなくてはならない。かつ外連気があってはならない。今月の旅は富山から岐阜、長野の「街道」でした。宮崎空港→羽田空港経由→富山きときと空港→(レンタカー借り)→新湊大橋→海王丸パーク(富山新港)→万葉線八尾「おわら風の盆」→(神岡鉱山→飛騨市通過)→高山市(泊)→(2日目)→宮川朝市→高山市散策(古い町並「国選定重要伝統的建造物群保存地区」からくりミュージアム高山陣屋山田春慶店など)→「自然薯茶々」(昼食)→飛騨山脈(北アルプス)越(安房トンネル・奈川渡ダム)松本市(レンタカー返却)→中央線「あざさ」→東京(新宿)→東京泊→(3日目)→東京散策→宮崎空港・・・・・・の路程でした。つづく。9月10日。

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