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今週の親仁ギャグ・2019年10月13日(日)~10月19日(土)

●日本列島形成途中の、今から7万年前、北方からはマンモス・ヘラジカ・トナカイ・ヒグマ・ナキウサギ・キタキツネなどの獲物を追っかけて大陸の旧石器人が渡って来ました。同様に南方からも獲物(ナウマンゾウ・オオツノシカ・カモシカ・二ホンジカ・ツキノワグマ・ニホンザルなど)を追っての渡来人がありました。そして日本列島が完全に分離されたことで人々も独自の進化を遂げたのです。このことは、遺伝子学的にも証明されるようになっています。今の日本人に約35%の頻度で見られるある遺伝子は、日本列島に初めて到達した現生人類(ホモサピエンス)のタイプと考えられており、3万7千年~3万8千年前に日本列島で誕生したとされる・・・・・・そうな。アフリカで生まれたホモサピエンスが日本に到達したのが約4万年前ということですな。ところで日本人の最古の人骨は、石垣島(石垣市)の「白保竿根田原洞穴遺跡」で見つかった旧石器時代のもので、実に2万7千年前と推定されています。本州などでの発見がないのは土壌の性質によるもので、沖縄は保存されるに適しているそうな。新人は約20万年前にアフリカで誕生したのはご存じでしょうから、日本に到着するまでに実に十数万年を要したということになりますかつづく。10月17日。

●地球の誕生が約50億年前としましょうか。(ユーラシア)大陸と日本列島が引き裂かれ始めたのが、今からほんの少し前の2300万年前(中新世)頃からで、1500万年前には日本海の窪みが形成されたそうです。その後も地殻変動は続き、2万年前にはほぼ今の日本列島の形になったそうな。そして宗谷海峡が誕生したのが今から1万3000年前から1万2000年前だそうです。では人口はどうなのでしょうか。遺跡の数から推定しているようですが、縄文早期(8100年前)の日本の総人口は、なんとも少なく僅か2万人です。以下縄文前期(5200年前)が10万5千人縄文中期(4300年前)が26万人、縄文後期(3300年前)が16万人、縄文晩期(2900年前)が後期の半減の7万6千人弥生時代(1800年前)が約60万人だったそうな。随分と人口密度の低かったことか。弥生の人口は、今の宮崎市の1.5倍ですならな。つづく。10月17日。

●そこで大問題があるのですが、それは今回の旅のテーマである「オホーツク文化」というものです。この文化は、3世紀から13世紀の長きにわたって、オホーツク沿岸を中心に北海道北海岸や樺太、南千島に展開した、海洋漁猟民族の文化です。縄文人ともアイヌ人とも異なる民族による文化なのです。このオホーツク人が遺してくれたもののひとつが「モヨロ貝塚」なのです。つづく。10月16日。

●今回の旅は、現在言われている日本人のルーツを可能な限り理解できないものか・・・・・・という仕掛けなのですが、果たしてどのくらい達成できるものやら。まず手始めに北海道の民族と文化の変遷を調べてみることにしますか。北海道は本州とは異なった文化を育んできたのですが、旧石器時代と縄文時代は大して変わらないものとしましょう。北海道で縄文時代に続くのが「続縄文時代」であり、紀元前3世紀ころから紀元後7世紀までみられます。これは本州の弥生から古墳時代に相当します。その次に現れるのが「擦文文化」であり、7世紀から13世紀まで続きます。これは飛鳥から鎌倉時代の後半に相当します。その後が13世紀からの「アイヌ文化」であり、鎌倉時代から現在に当たります。つづくこれからの文章は、只今勉強中であり、誤りが多数みられると考えられますので、鵜呑み厳禁です。10月16日。

●30回目を迎えた「今月の旅」は「オホーツク」でした。宮崎空港→(羽田空港経由)→女満別空港(レンタカー借)→(網走湖通過)→モヨロ貝塚館→能取湖・サンゴ草群生地→サロマ湖→紋別(1泊目)→(道の駅)→(浜頓別通過)→エサヌカ線→道の駅さるふつ公園(ホタテ焼カレー)→宗谷岬(間宮林蔵像・日本最北端の地)宗谷丘陵(風力発電・白い道)→稚内駅(日本最北端の線路)→ノシャップ岬→稚内(2泊目蛸しゃぶ)→宗谷岬(間宮林蔵渡樺出港の地)→宗谷丘陵→稚内空港(レンタカー返却)→(羽田空港経由)→宮崎空港・・・・・・の2泊3日の旅程でした。主目的は「モヨロ貝塚」と「間宮林蔵」でした。つづく。10月16日。

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