●俄な考古学書生の限界・・・・・・先ほど(2019年7月9日の午前)、国立科学博物館の「3万年前の航海 徹底再現プロジェクトチーム」が丸木舟(シーカヤック)で台湾を出港し、200キロ以上離れた沖縄の与論島へ到着したニュースがあった。(9月7日午後2時半出港し、9月9日の午前11時半に到着・杉をくりぬいた長さ7.5m、幅70cmの5人乗り)。これがいわゆる「台湾から南西諸島に渡るルート」なのだが、東アジア人の縄文人が日本に渡来したのは「朝鮮半島から対馬を経て九州北部へ渡るルート」が最初である・・・・・・ことが通説。そしてもうひとつのルート(3つ目)が「サハリンから北海道に渡った後南下するルート」。台湾からわずか200キロの与那国島までに要した時間は45時間。3万年前は樺太と北海道だけは陸続きだったから、今の日本海や東シナ海の潮流とどのくらい違いがあったのか・・・・・・俄考古学書生に知る由もないが、陸続きの北海道はもとより、朝鮮半島からの渡来は台湾ルートよりも多分に楽であったことが想像される。つづく。10月29日。
●縄文時代の代表的な遺跡のひとつは「三内丸山遺跡」である。私がそこを訪問したのが2017年9月のこと。今からちょうど2年前である。その時に書いた「壺中の別天地」の文章をどうぞ・・・・・・
▼三内丸山遺跡
三内丸山遺跡は青森市大字三内字丸山の地名が由来。青森空港と青森市街の間にあり、空港から車で10分と近い。遺跡の存在は江戸時代(弘前藩)から知られていたが、県営野球場の建設の際にその規模の大きさが判明。大型竪穴住居が10棟以上、約780軒の住居跡が確認された。今から遡ること5500年前から4000年前の1500年間の縄文時代の集落跡である。縄文時代は世界的には新石器時代である。土器の出現が新石器時代であり、今から約13000年前から稲作伝来の約2300年前までの、約10700年間を云う。由来は土器に縄文模様があるため。3枚目の写真は、集会所、共同作業所、冬期間の共同家屋として活用されたのではないかと想像されている「大型竪穴住居」。4枚目の写真は、大型掘立柱建物(六本柱建物)、穴の大きさと深さは2メートル、柱の間隔は4.2mであり、「縄文尺」(35cm)が使用されていた。この尺度は他の遺跡でも確認されている。その穴に残された栗の木の柱。残った柱には1mのものもある。復元の柱も栗の木ということだが、こんな巨大な樹齢の木が果たして今の日本に存在するのやら・・・いろいろと疑問も膨らみましたが・・・深堀はしません。耐久性を増すために表面を焦がしてもいるそうです。7枚目の写真は高床式掘立柱建物です。これももちろん想像の復元物ですが、柱自体がどっしりと重厚で、今風のログハウス様であります。避暑地としてこのままでも利用したい気分であります。8枚目は竪穴建物で、屋根は萱や樹皮や土などで葺いてあるようです。三内丸山遺跡の最大の特長は、稲作伝来のはるか遠い昔にこの日本で、栗を植林し、大きな集落を形成し、狩猟や漁業をしながら、1500年もの間、定住生活をしていたことです。その世界的にも発達していたコミュニティ-が突如、崩壊したらしいのですが、それは謎のようです。司馬さんはこの遺跡が発見されるや、居ても立っても執筆もできずに、この地へすっ飛んできたそうです。遺跡発見のニュース第1報は1994年7月17日の朝日夕刊。司馬さんがここに立ったのは同7月22日と云う。司馬さん他界の1年半前のことです。写真は史跡の縁(発掘途中と思われる)の栗の木とその実。
つづく。10月29日。