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今週の親仁ギャグ・2019年11月24日(日)~11月30日(土)

龍馬が書簡に遺した竹島(鬱陵島)への想い・・・・・・それは1867(慶応3)年3月6日、長府藩士・印藤聿に宛てたものです。「『先日より病気二て』とし、阿弥陀町自然堂に引き籠り中『三月六日、ねられぬまま』筆を執り箇条書長文を認め(以下略)・・・・・・」たのです。(現在の鬱陵島を当時の日本では「竹島」と呼んでおり、現在の竹島を「松島」と呼んでいた)。
▼第三段
上一段二段の事どもつらつら案ずる所、彼竹島行の事ハ兼而御聞ニ入置候通り、三大夫ニも御聞ニ入レ申セしニ、随分御同心ニ候て、何レ近日二度ビ関ニ出候而 決定可レ致との事なりし。其後ハまだニ御めニかゝらず、御返じを相待所ナリ。然ニ当今世上の人情目前の事斗でなけれバ、相談ハならぬ事故ニ諸人ハ竹島行の事共ハ、皆無用の事として大夫が遠大の策にハ随ふまじくか、然レバ其事ハ行ハれまじく残念の儀に相察し候。
▼第七段
大洲の船、石炭費用一昼夜ニ一万五千斤(故ニ二万斤の見込ナリ。)タネ油一昼夜ニ壱斗、
彼竹島ハ地図を以て側算すレバ、九十里斗なるべし。先頃井上聞太、彼島ニ渡りし者ニ問しニ、百里ナリ、とおふかた同じ事ナリ。其島ニ渡る者の咄しニ楠木ニよく似てありしもの、広くハ新木在レ之、其外、壱里余より弐里もあらん平地ありしと也。島の流レハ十里斗なりと、小弟曽而長崎二二て聞しニ何とも相似たる咄し也。是本一ツ所より出たる咄しならんかともうたがふ。下の関ヨリ行テ下の関ニ帰ル
彼島ニ行て唯かへれバ三日のひまとるべし。但し下の関より。
▼第十段
御頼申上度事ハ三大夫及君御召立がとゝなハずとも、山に登りてハ材木を見、木の名を正し、土地を見てハ稲及むぎ、山にてハくわの木はぜの木、其地ニ応じ候や否を見る者、一人海ニ入り貝類、魚類、海草などを見るもの。
(▲御セ話可レ被レ遣候やと頼申上度事ハ、此儀にて御座候。)
上件小身ニ一生の思ひ出とし、良林及海中の品類よきものを得バ、人をうつし万物の時を得るをよろこび、諸国浪生らを命じて是が地を開かすべしと、其余思千万ナリ。(以下略)。

この手紙(書簡)が書かれたのは1867年で龍馬暗殺の約8カ月前です。竹島事件は1830(天保元)年に発生していますから、日本(江戸幕府)が竹島(鬱陵島)を朝鮮李王朝と認めてから30年以上が経過しています。龍馬もこのことは知っていたことになりますから、この手紙の内容は竹島奪還とも受け取れます。龍馬の領土意識が興味深いですな・・・・・・あらためて龍馬が生き続けていてくれたら・・・・・・と想うばかりであります。

参考:「龍馬の手紙」(宮地佐一郎・講談社学術文庫)、「龍馬書簡集」(高知県立坂本龍馬記念館)、「坂本龍馬からの手紙」(宮川禎一・教育評論社)
つづく。11月30日。

間宮林蔵(1775~1844)はアイヌ語を話すことができたし、数理に明るく、伊能忠敬(1745~1818)にも見いだされるばかりか門人として愛され、忠敬をして「相親シム、師父ノ如シ」と言わしめた・・・・・・ほどの人物であった。隠密になっても天性のマルチな才能を活かしたのであろう。活動量も並大抵ではなかったことがその足跡からはっきり分かる。(唐突だが)さきの竹島事件であるが、坂本龍馬(1835~1867)が誰かへの書簡で竹島(=鬱陵島・現在の竹島は当時、松島と呼んでいた)について書いていたのを、ふと思い出した。早速調べたら、やはりその書簡掲載の本はすぐに見つけた。龍馬の世界観の広さと見識の高さにあらためて驚いた。龍馬が初めて江戸遊学したのが1853(嘉永6)年で、小千葉道場で剣術修行を始めた直後の同年6月3日、黒船が浦賀に来航したのであるから、忠敬はもちろん、林蔵もすでに鬼籍にあった。つづく。11月29日。

間宮林蔵のその後・・・・・・幕府の隠密(密偵)として後世に名を残した史実2:竹島事件(1830年=天保元~1836=天保7)
江戸時代、浜田藩御用商人、回船問屋の会津屋八右衛門は借金苦の藩財政再建のため、朝鮮(李王朝)と密貿易を提案し、鬱陵島(当時日本では「竹島」)をその拠点としていた。
この密貿易には浜田藩の在国家老岡田頼母、在国年寄松井図書はじめ、藩主で老中の松平康任も黙認しており、目論見どおり巨利を得て藩財政再建に成功。
しかしこの密貿易は国禁であり、それを幕府隠密の間宮林蔵に密貿易を探知され発覚。
1836年(天保7年)6月、大坂町奉行の手によって頼母の家臣で藩勘定方の橋本三兵衛と会津屋が捕らえられ、12月23日に処分が幕府より言い渡される。頼母、図書は切腹、橋本三兵衛と会津屋は斬罪、また藩主の康任は死罪こそ免れたものの永蟄居。藩そのものは陸奥棚倉へ懲罰的転封。
頼母、図書、橋本、会津屋らは、財政危機を救おうとした人物たちとして、地元を中心に支持は根強い。

そこで、現在の「竹島問題」との関連・・・・・・
現在の鬱陵島を当時の日本では「竹島」と呼んでおり、現在の竹島を「松島」と呼んでいた。
元禄時代の鬱陵島の領有問題(竹島一件=当時鬱陵島には朝鮮人が居住)の結果、日本は鬱陵島への渡航を禁止したが、現在の韓国はこの時松島(現在の竹島)も竹島(鬱陵島)と同時に放棄したと主張。
しかし、竹島事件の判決文の中には、橋本三兵衛が会津屋八右衛門に対して「右最寄松島へ渡海之名目を以て竹島え渡り稼方見極上弥々益筋に有之ならば取計方も有之」と語ったことが記されており、「竹島一件」後も松島(現在の竹島)への渡航は禁止していなかった。現在の日本では、竹島一件において幕府が自ら放棄したのは竹島(鬱陵島)だけであったとことが確認できる。
しかし「朝鮮竹嶋渡航始末記」には、竹島事件の尋問中に会津屋八右衛門が書いた方角図が添付されており、「竹嶋」「松シマ」が朝鮮半島と同じ朱色で着色されている。そのため、韓国では当時の日本で松島(現在の竹島)が朝鮮領と認識されていた証拠であると主張。
竹島一件:1692年(元禄5年)から1696年(元禄9年)1月まで日本と朝鮮との間で争われた鬱陵島の領有問題。 (以上、Wikidediaより)。
つづく。11月28日。

間宮林蔵のその後・・・・・・幕府の隠密(密偵)として後世に名を残した史実1:シーボルト事件
オランダ商館付医官、P.シーボルトが文政11(1828)年帰国に際し、当時、国禁であった日本地図 (幕府天文方高橋景保が伊能忠敬のつくった日本および蝦夷の地図を写して贈った) などの国外持出しをはかり、シーボルト以下、多くの幕吏や鳴滝塾門下生が処罰された事件。文政 11年8月9日の暴風で稲佐のなぎさに座礁した『コルネリス・ハルトマン』号の修理のために降ろした積荷から発覚し、11月10日商館長メイランを通じて地図そのほか 26点の品を押収、たびたび尋問の末、シーボルトは翌12年9月25日長崎奉行より国禁 (国外追放) を受け 12月5日、日本を去った。また高橋景保は同11年10月10日に検挙され、翌12年2月16日に獄死したが、死骸を塩漬にされ、同13年3月26日死刑の判決を受け、その家族、部下、通詞、医師四十数名が遠島以下諸種の処分を受けた。幕府は、これを機会として、より一層洋学者の行動をきびしく監視するようになった。」(ブリタニカ国際大百科事典より)。
このシーボルト事件を密告したのが林蔵であると、当時は信じられていたという・・・・・・果たして真相は???(分かりません)。
:伊能忠敬の日本地図(伊能図)の写しは座礁した船から見つかったのではなく(出航前の船には未だ積荷してなかった)、出島での家宅捜索時が史実とされている。
:林蔵が密告したのは高橋景保との確執があったとか。シーボルトは林蔵が採集した蝦夷地の植物の標本を所望する手紙を出したが、林蔵は手紙の封を開けずに上司に提出した(外国人への個人的な贈答は国禁であると、林蔵は考えた)。これがシーボルト事件の発端とされる。
つづく。11月28日。

間宮林蔵が間宮海峡を発見するまで・・・・・・その2
樺太調査に選ばれた二人は、ロシア軍艦の出没が常に念頭にあり、いつ死ぬかわからない状況から出発にあたってはその前に墓を建てたり、遺言をのこした。伝十郎は従者を江戸に帰し、年月が経って帰国しない場合は、「ソウヤ出舟の日を忌日と定めよ」とした。林蔵は、一度常陸筑波郡上平柳村(現・伊奈町)に帰り、菩提寺の専称寺の片隅に小さな墓を建て、その墓石には「間宮林蔵之墓」と自筆した・・・・・・という。そして1808年、樺太目指し図合船で宗谷を出港した。
出港の当日、林蔵らふたりは樺太のシラヌシに着いた。ふたりはここから東西に分かれて、伝十郎が西海岸を、林蔵が東海岸を北上した。林蔵はアニワ湾のコルサコフ(大泊)で最上徳内に会った(徳内は頻繁に樺太を訪問していた)。そして多来加湾岸のシャクコタン(散江郡散江村)に到達するも、それ以上は困難を極め、再び南下して最狭部であるマーヌイ(栄浜郡白縫村真縫)から樺太を横断し、西岸クシュンナイ(久春内郡久春内村)に出て海岸を北上後、北樺太西岸ノテトにて伝十郎と合流。その後ラッカに至り、樺太が島であるという推測をし、そこに「大日本国国境」の標柱を建てた。文化6年6月(1809年7月)、宗谷に帰着。
最初の樺太探検から宗谷に帰着してからは僅か20日ほど休息し、再び樺太に向かった。この2度目の樺太探検で黒竜江河口の対岸に位置する北樺太西岸ナニオーまで到達し、樺太が半島ではなく島であることを世界で初めて実検・確認し、1809年11月、宗谷に戻った。
つづく。11月25日。

間宮林蔵が間宮海峡を発見するまで・・・・・・その1
常陸国筑波郡の農家の生まれ。江戸後期には農民の子供から医学や理学に秀でた偉人が多く輩出された。そのひとりが最上徳内(1755~1836)で、1792年に樺太に上陸している。(それ以前にも松前藩は1635年に佐藤嘉茂左衛門と蠣崎蔵人を、1636年には同藩の甲道庄左衛門(越冬調査)をそれぞれ派遣したし、1790年には「カラフト場所」を設置。)
幼少時は永年蝦夷地調査に従事した村上島之允に学び、さらに伊能忠敬にその才能を見出され門人となった。
そしていよいよ幕府が樺太調査の人選にあたり、ついに松田伝十郎(越後国柿崎の農民出身)と林蔵が抜擢された。
つづく。11月25日。

●さらに間宮林蔵について・・・・・・まずは樺太探検(間宮海峡発見)に至る時代的背景について
宗谷は鎖国の江戸時代、唯一開かれていた長崎(中国・オランダの2国)のように外国との交流が許されていた。江戸幕府は見て見ぬふりをしてい、容認していた。
宗谷との交易ルートは「樺太」であった。樺太の語源は不明だが、1説には樺太経由で入ってきた中国産の玉、「樺太玉」(からふとだま=刀の帯締めなどに使用)からか。江戸時代の樺太は、奥蝦夷とか北蝦夷とよばれていた。
その重要な交易ルートであった樺太と宗谷・・・・・・18世紀になると欧州の航海家や探検家が宗谷海峡を航海した。1787年のド・ラ・ペルーズ(仏)、1797年のW・R・ブロートン(英)、1805年のI・F・クルーゼンシュテルン(露)。
しかし、彼らは樺太が島であることを実検できず、「韃靼大陸の一半島」としていた。
・・・・・・そこで間宮林蔵の登場となる。
つづく。11月25日。

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