●「城の崎にて-中篇-」
主人先生「そうじゃな、一昨年の6月の暑い日じゃったな。福岡まで飛行機で、それから岡山まで新幹線で、伯備線を乗り継いで米子へ、そこでレンタカーを借りて日本海側を延々と東進して豊岡市で車を返し、そして城崎温泉に辿り着いたのじゃった。志賀直哉(1883~1971)はな、1913年というから大正2年じゃな、その8月15日に山手線の電車にはねられ重傷を負って、その養生のためにその年の10月に城崎を訪れたのじゃ。その電車事故でもしかしたら自分は死んでいたかもしれないとの思いを蜂や鼠やイモリに重ねたのじゃな。このような表現形式のものを『心境小説』というらしいな。白樺派の特徴らしいが・・・・・・」
二太郎「主人先生は蜂を蟻と記憶しておったということわん?」
主人先生「そうなんじゃよ、所詮蟻も蜂もどっちでもいいじゃないですか・・・・・・という意見もあろうがな、そうじゃないんじゃな。問題の根本はな、作者(志賀直哉)が感じていることや伝えたいことを理解できずに只ぼんやりと流し読みしたということじゃな。吾輩の精神構造的な未熟さなんじゃよ。悲しい哉。『城の崎にて』はな、新潮文庫なんじゃが、そのほかに『小僧の神様』や『流行感冒』という短編ものもあるんじゃ。その『流行感冒』という小説はな、実は1919年の発表なんじゃ。二太郎よ、1919年と云えば何かピンとこないかい?」
二太郎「そりゃ犬の分際の二太郎君にしても答えられますわん。日本でも国民を震え上がらせたスペイン風邪が流行った年でしょう? たしか1918年8月から1919年7月の第1波から1920年8月から1921年7月の第3波まで流行したわん。『流行感冒』の作品は1919年4月に『白樺』に発表したものですから、小説の内容は第1波の時のものですわん。第1波の死者数は26万弱、第2波で13万弱、第3波が4千弱ですから、40万人に迫ろうかと云う数字でしたわん」
主人先生「流石は二太郎君じゃな。ワン公にはインフルエンザは感染しないからの、そして新型コロナも感染の感受性や病原性が弱いから比較的のんびりじゃな。人間様はこれからどのくらいのスパンで巣籠りかと戦々恐々じゃな。『流行感冒』じゃがな、主人(志賀直哉自身が?)が植木屋から感染すると妻も娘も、そして奉公の女中さんや看護婦さん達にも拡大したことが書かれているんだな。幸い小説のなかでは死人はなかったがな。なにせ家中の者が感染しないように気を配ったことが分かるんだな。そう云えばこのスペイン風邪を機にマスクが定着したと言っても過言ではないんじゃ。マスクは明治になって主に防塵の用途で使用され始めたのじゃが、感染症対策としての普及は1919年のスペイン風邪流行がきっかけなのじゃ。このスペイン風邪による世界の死者は、ふたつの大戦のそれぞれの死者数である5千万人に匹敵すると言われているからな、日本での40万人弱(38万人)という数字(致死率)は低い方じゃ。日本人の衛生観念の高いことは今始まったことじゃないんじゃな」
※1900年の世界の推定人口は15億5千万~17億6千万位で、5千万人の犠牲となると死亡者は全人口の3%前後である。一方1920年の日本の人口は約5600万人で、1918~1921年のスペイン風邪感染者数は約2380万人であり、その感染率は約43%である。2380万人のうちの約38万人が死亡していることから、致死率は約1.2%である。
二太郎「なるほどわん、今回の新型コロナの感染数や死者数が少ないのは、遺伝子(DNA)のように脈々と受け継がれている衛生意識の高さと云うことですか? ところで今回のわんにゃん問答の主題はいったい何でしたかわん?」
つづく。9月25日。