●「食への貪欲さ・魯山人のこと-承継2-」
金之助「主人先生よ、魯山人とやら偉い先生がその星ヶ岡茶寮を運営してころの京都から東京まで汽車でどのくらいの時間がかかったのにゃんか?」
主人先生「グッドクエスチョンじゃな。資料によるとな、1930年(昭和5)の東京大阪間が8時間20分とあるから7時間半から8時間弱と云ったところじゃな。今は新幹線『のぞみ』でその所要時間は2時間20分じゃがの」
金之助「そうですにゃんか、8時間もかけて生きた鮎を京都から東京まで、それも鈍行で運んで高級料亭に通う貴人さまたちの口に入ったと云うわけですにゃん。ところでその鮎ですが、そんなに苦労して運ばなくても当時の東京でも美味い鮎はいっぱいいたんじゃないにゃんか?」
主人先生「流石は金之助じゃ、鋭いところを突いてくるな。それはな吾輩にも答えられんことじゃが、まあ強いて言えば、それが魯山人のこだわりじゃったんだろうよ。それはさておき、一般的な美味な鮎はな、先ずは①急流の清流で育ち、②15~20cmの若鮎で、③川底の日当たり良く、④川底の石の苔(藻類)が健康で豊富で、⑤そして生きた鮎で、⑥かつ獲ってからの時間がなるべく経っていないものじゃな。水槽や生簀で3日も泳がせたら鮎の腸(はらわた)は透き通るようになって苔の匂いが失せるからの。そうであるからな、鮎は現地で獲りたてを食らうのがいちばんということじゃ」
金の助「それじゃ今度主人先生の生まれ故郷に僕にゃんも連れて行ってほしいにゃん。6月末か7月の初めが良いと言っていたにゃん。僕にゃんはいつもクロやキハダの鮪か鰹ばっかしにゃんで、川魚はお口に入ったことがないにゃんから、来年は一緒について行くにゃん。鮎の背越をシャキッシャキッやって骨ごといただくにゃん」
主人先生「おおこの魯山人猫、この度の金の助への土産は、鮎の塩焼と鮎寿司だったもんな。あまり所望でないようでプイじゃったからの。わかったわかった、来年は初の長時間ドライブに鮎の背越じゃな、洗いも試してみっか?」(完) 9月2日。
●「食への貪欲さ・魯山人のこと-承継1-」
▼仙台から海鞘が新幹線で東京駅に輸送され、即座にお客の口へ。東京駅のグルメは、田舎者には多すぎて目が回りますが、どの店もぎゅうぎゅうであります。(コロナ前の話ですが。羽田までの時間潰しには格好の選択肢のひとつでしょう)。「東京一番街」に「八重洲地下街」、「ラーメンストリート」に「GRANSTA TOKYO」など目移りが尋常でありません。興味のある店は行列だし、いつの間にか山手線状態です。
主人先生「金之助よ、その東京駅の海蛸じゃがの、テレビのニュースで映っていたのはその一店の『築○寿司〇』じゃと思うがな、客の頬っぺたが落ちていたから、さぞ美味かったのじゃろうな。我ながらテレビに流涎ものじゃったな」
金之助「主人先生よ、その海鞘と鮎と魯山人といったいどんな関係があるにゃんか?」
主人先生「それはな、つい最近の○ピ〇スの鮮魚売り場に海鞘が売られていたのじゃ。北海道産と表示してあったが、調理前の姿で、あえて言えばドラゴンフルーツににている動物じゃ。天然は岩にへばりついていて浮遊する小さな植物が餌らしいな。脊椎動物の近縁で脊索動物といい、動物だから心臓も神経も消化器も持ち合わせているんじゃ。この海鞘に並んで天然鮎も並べてあったのじゃがな、その時、あの新幹線海鞘の映像が重なったのじゃ」
金之助「それは近所のスーパーで夢想に浸れるなんて、なんと幸せなのことにゃんか?」
主人先生「魯山人の『料理天国』に、『私たちの子供の時分によく嵯峨桂川あたりから鮎を桶に入れて、ちゃぷんちゃぷんと水を躍らせながらたついで売りに来たものである。このちゃぷんちゃぷんと水を躍らせるのに呼吸があって、それがうまくゆかぬと鮎はたちまち死んでしまう。これが鮎売りの特殊な技術になっていた。そんなわけで、私は鮎を汽車で京都から運ぶ際に担い桶をかついだまま汽車に乗り込ませ、車中でちゃぷんちゃぷんをやらせたものであった。もちろん駅々では替えさせたが、想い起してみると、随分えらい手間をかけて東京に運んできたものである。たかだか二十五、六年前のことだが。』」
金之助「二十五、六年前とはいったいいつごろの話ですにゃん?」
主人先生「それが驚き桃の木山椒の木なんじゃ。題名は『インチキ鮎』とあるのじゃが、掲載は昭和十年五月の『星岡』五十六号なんじゃから、昭和十年は1935年じゃからな、今から85年も前の昔じゃ。魯山人が亡くなったのが1959年じゃからな、死の24年前の、御年42のころということじゃが、それからすると魯山人が汽車で京都から東京へ生きたまま鮎を汽車で運んだのは魯山人がなんと16歳じゃないか? いくら天才の魯山人でもちょっと若すぎじゃの」
金之助「そう云えば主人先生よ、魯山人という人は『星ヶ岡茶寮』と云う高級の会員制料亭をしていたんでしょ? そのころの生き鮎の汽車運搬じゃないんですにゃん?」
主人先生「ほう星ヶ岡茶寮を知っているとは隅におけぬ猫じゃな。ところがな魯山人が星ヶ岡茶寮に携わったのは1925年(大正14年3月20日)から解雇された1936年(昭和11)まででな、このエッセイが生まれた時から25、6年前はまだ星ヶ岡茶寮には関係しとなんな。と云うことわじゃな、京都から東京まで生きたままの鮎を汽車で運んだのは魯山人が最初ではなかったんじゃな。魯山人は文字通りの波乱万丈、筆舌に尽くしがたい苦労人じゃがな、15、6歳の魯山人は京都で養父の木版の手伝いをしていた頃じゃからな」
つづく。8月31日。